さて、パラダイムの更新と定着、そしてその再生産の制度化という考え方は、本来の科学技術の分野を離れて、会社などの組織にも「応用」されます。
会社では、創業者や中興の祖が、新しい製品やビジネス・モデルを発明し、ヒットさせます。そして会社は大きくなり、従業員も増えます。
パラダイム転換は、このモデルがうまくいかなくなったときに、唱えられます。学問の行き詰まりや、会社では製品が売れなくなったときです。このようなときに、組織の内外から、パラダイム転換、革命が唱えられるようになります。
もっとも、転換を唱えるだけでは、改革になりません。学者なら、定説に代わる新説を提唱し受け入れられること、会社なら新製品が売れる必要があります。
この点、評論家はお気楽です。結果を出さなくてもよいのですから。もっとも、代案も出さずに、現状を批判していても、説得力はありません。ここに、評論家と実務者との違いがあります。
しかしここで、矛盾が生じます。会社や大学といった組織は、「通常科学」を進化させることは得意ですが、パラダイム転換には不向きです。
教授や会長の教えを守るのが、後輩や部下の務めですから。転換は、既存の幹部からすると、異端の考えであり、異端児です。
「科学革命」を成し遂げるのは変わり者で、「通常科学」を深めるのは普通の科学者です。会社でも、出世するのは、社長の教えを守る「よい子」です。
別の発想で従来の製品を革命的に変える製品や、通説を変える新説を出すのは、後継者からではなく、別の組織からです。革命家や改革者は、既存体制では不遇で、保守本流からは、危険分子であり、つまはじきにされるのです。
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パラダイム、その2
中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』は、次のような構成になっています。
第1章 記録的学問と論争的学問
第2章 パラダイムの形成
第3章 紙・印刷と学問的伝統
第4章 近代科学の成立と雑誌・学会
第5章 専門職業化の世紀
第6章 パラダイムの移植
これだけではわかりませんが、時系列になっているのです。
第1章は、バビロニアと古代中国、古代ギリシャと諸子百家。第2章は、ヘレニズムと漢。第3章は、中国官僚制・紙・印刷とイスラムの学校、ヨーロッパ中世の大学です。第4章は、表題の通り。第5章は、ドイツの大学アカデミズムの成立、イギリスとフランスの場合、アメリカの大学院。第6章は、幕末明治の日本への西洋科学の移植です。
わかりやすくするために、いろいろなことを切り捨てておられるのでしょうが、私たちにも「なるほど」と思わせるものがあります。分厚い学術書も有用ですが、これだけ簡潔にするのはかなりの熟練が必要です。
パラダイム
中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』(2013年、講談社学術文庫)が、とてもおもしろいです。
パラダイムという言葉がよくわかるとともに、科学が「絶対的真理」として存在するのではなく、社会による認知や受け入れによって存在するものであることが、よくわかります。バビロニアと古代中国から説き起こし、平易な言葉で科学の進歩とは何かを説明してくださいます。
同じく講談社学術文庫の、野家啓一著『パラダイムとは何か』(2008年)も読みましたが、野家先生の本はクーンとパラダイムの解説であるのに対し、中山先生の本は、パラダイム転換と通常科学から見た学問の歴史です。いろんなことを考えさせてくれます。例えば、学閥と学派はどう違うか、大学は学問の進化を進めるのか阻害するのか。
私は、この本を読みながら、「ものの見方の枠組み」「組織での発想の転換」などを考え直しています。もっと早く読むべきでした。でも、このような文庫本の形になったのは、先月ですから、仕方ないですね。お勧めです。社内で改革を唱えつつ、実現せず不満を持っている方に、特にお勧めです。
「パラダイム」という言葉は、アメリカの科学史学者のトーマス・クーンが1962年に唱えた、科学史での概念です。クーンによれば「一般に認められた科学的業績で、しばらくの間、専門家の間に問い方や解き方のモデルを与えてくれるもの」です。
パラダイム転換や科学革命は、これまでの科学者の間での通説を壊し、新しい見方を提示します。天動説から地動説への転換のようにです。パラダイムの転換に成功すると、続く学者たちは、その枠組みで実験や観察を繰り返し、より精緻なものとします。クーンは、それを「通常科学」と呼びます。
クーンは、後にこの説を捨ててしまいます。しかしクーンの手を離れて、パラダイム転換という言葉は科学史以外でも用いられ、有名になりました。極端な場合は、「通説になったものの見方」としてです。いろんな分野で改革派が「旧来の考え方を、打破しなければならない」として、パラダイム転換を唱えるのです。経営学や評論で、多用されます。私も、よくこの意味で使っています。
この項続く。
経済関係が制約する外交
昨日、日本の部品が中国に輸出され、加工されてアメリカに輸出されていることを紹介しました。これは、外交や安全保障関係にも、重要な要因となります。
『フォーリン・アフェアーズ・リポート』(日本語版)の7月号で、リチャード・カッツ氏が「経済相互依存で日中紛争を抑え込めるか」を書いています。
そこでは、尖閣列島を巡る日中間の外交緊張関係によって、中国の日本からの輸入額が大きく減少しているが、決定的なボイコットに至っていないこと。中国が日本から輸入する製品の60~70%は機械や部品で、これを止めると中国経済そのものがふらつき始めること。IMFの報告では、中国の対外輸出が1%伸びる毎に、日本からの輸入が1.2%増えていることを紹介しています。
また、5年前、中国から輸出されるローテク製品の価値に占める輸入パーツの割合は22%程度だったのに対し、情報・コミュニケーション機器の場合は50%になります。そして中国の輸出品に占めるこれらハイテク製品の割合は、大きくなっています。
カッツ氏は、次のような目次で、議論をしています。
ナショナリズムか経済相互依存か。日本が支えるメイド・イン・チャイナ。経済が支える平和。
もちろん、経済関係だけで外交政策が決まるわけではありませんが、国家首脳がそれを要素に入れなければならないことは、間違いありません。半世紀前までは、経済・資源を巡って戦争が起きましたが、現在の先進国間では、経済の相互依存が戦争を抑止することもあります。
これには、経済の相互依存が大きくなってきたこともありますが、経済を一国が囲い込むものと見るのか、他国との相互依存と見るのか、その見方が変わってきたのだと思います。
詳しくは原文(英語はこちら)をお読みください。
付加価値で見る世界貿易
6月26日の日経新聞経済教室で、玉木林太郎OECD事務次長が、OECDが5月29日に公表した「グローバル・バリュー・チェーン報告書」と「世界貿易におけるサービス貿易の重要性報告書」を紹介しておられました。
貿易を、日本と他国例えば中国との輸出入で測り、貿易量の多さや輸出超過(貿易黒字)であるか輸入超過(貿易赤字)であるかを見ます。
しかし、例えば中国が日本から60ドルの部品を輸入し、それらを組み立てて100ドルの製品にしてアメリカに輸出したとします。日本の中国向け輸出が60ドル、中国のアメリカ向け輸出が100ドルで、世界貿易総額は160ドルです(総計、グロス表示)。
これを付加価値で見ると、アメリカでの最終需要100ドルに対し、日本では60ドルの付加価値、中国では40ドルの付加価値です。しかも、日本の付加価値60ドルは、中国向けでなくアメリカへの輸出に計上されます(純計、ネット表示)
このように、2国間の貿易額でなく、付加価値が各国をどのように移転するか、チェーンで見る見方です。
国内での生産と消費を計算する場合(国民経済計算、GDP)も、部品を買って加工して売った場合は、仕入れた額を中間投入として差し引いて、二重計上しないようにします。また、中央政府から10万円補助金が出て、それをもらった地方政府が5万円加えて、住民に15万円支出した場合も、同様です。単純に、国の支出10万円と地方の支出15万円を足すと25万円ですが、全体で見ると15万円が住民に渡っています。
今回の報告書を見ると、日本から部品をアジア各国に輸出し、それらの国で加工組み立てされて、アメリカへ輸出している構図が見えてきます。
台湾や韓国では、輸出のうち4割が国外での付加価値に依存していて、それら部品などの輸入がなければ、輸出できないことを示しています。輸入を制限すると、輸出ができなくなるのです。
このほか、各国の輸出の半分が、サービス(卸売り、運輸、通信、金融、研究開発など)です。輸出額で見ると4分の1なのですが、付加価値で見るとその倍になるのです。私見ですが、モノは輸入し加工して輸出すると、付加価値では半減するのに(純計操作)、サービスはそのまま付加価値になる(輸入したサービスをそのまま使って輸出できない)からだと思います。
日本の対外貿易を示す際に、2国間の輸出入の矢印の太さで示す世界地図がありますが、付加価値で見ると、違った地図になるのですね。