「社会の見方」カテゴリーアーカイブ

日本型雇用慣行が制約する起業

10月15日の日経新聞経済教室、本庄裕司・中央大学教授の「日本企業、安定から挑戦の循環へ」から。

・・・言うまでもなく、創業者は企業の誕生と成長に不可欠な存在だ。創業者は、自身の信念や時には思い込みから事業を始め、それが競合他社の模倣を許さないイノベーション(革新)や迅速な事業化につながることもある。
スタートアップ企業の誕生は、創業者が他の選択肢ではなく起業(創業)を選ぶことから始まる。国際的な調査プロジェクト、グローバルアントレプレナーシップモニター(GEM)によると、アントレプレナーシップの水準は、多くの先進国よりも発展途上国で高い傾向が見られる。
その理由の一つが、代替となる魅力ある就業機会が乏しいことだ。かつての日本も、これに近い状況だった。第2次世界大戦後、安定した就業機会が限られ、井深大と盛田昭夫(ソニー、当時、東京通信工業)、稲盛和夫(京セラ、当時、京都セラミック)ら、多くの優秀な人材が起業の道を選んだ。
ところが、高度経済成長期を経て既存企業への安定した就職が浸透すると、状況は一変した。新卒一括採用、年功序列、終身雇用、生え抜き人事、定年制などの伝統的な日本型雇用システムが確立し、優秀な人材が既存の大企業に流入した。こうした企業における就職の安定化は、起業をよりリスクの高い選択肢へと追いやった。さらに、終身雇用や生え抜き人事といった慣習は、優秀な人材を組織内に囲い込む効果をもたらした。

日本型雇用システムのもとでは、ファミリー企業などを除き、次期経営者は社内での出世競争を勝ち抜くことが求められる。そこでは、リスクを取って新しい事業を生み出すアントレプレナーシップを持つ者が勝者になるわけではない。
出世のトーナメント競争では、むしろ組織内での広範な支持が不可欠だ。そして経営者の座を射止めた者は、合意形成を図る調整役としての手腕が試される。その結果、既存事業の維持を優先し、新しい事業への意欲や市場の変化に対応する意識が希薄になる。組織の秩序を優先する日本の経営者が陥りやすい点だ。 

もっともスタートアップ企業であっても、成長して組織が拡大すれば、必然的に組織内のマネジメントが求められる。それまでの創業者の独断的な意思決定も、いつしか組織的・民主的な方法に改められる。時には組織内の政治的活動や組織外のロビー活動も必要になる。組織の拡大に伴って、本来持ち合わせていたアントレプレナーシップの発揮が困難になる。いうなれば「成長のわな」だ。
こうした限界を考えると常にスタートアップ企業が登場する環境が必要だ。企業の誕生と成長には人材、資金、技術といったリソース(経営資源)が欠かせない。また、組織の人材には経営、技術、財務といった専門能力が求められる・・・

・・・バブル景気崩壊以降の30年間、日本経済は成長力を失い、かつて時価総額ランキング上位を占めていた日本企業はその存在感を大きく低下させた。2025年8月末時点で上位に並ぶのはエヌビディア(1993年設立)をはじめ、GAFAMなど米国のテック大手であり、トップ50に入る日本企業は、トヨタ自動車(1937年設立)が唯一だ。比較的若い企業が台頭する米国や中国の企業とは対照的に、日本では若い企業の存在感が乏しい。いまの日本で急成長するスタートアップ企業が誕生していない一つの証左だ。

高度経済成長やバブル景気を支えた日本型雇用システムは、その後の新しい事業創出にプラスに作用したとは言い難い。新卒一括採用や終身雇用は、若年層を含む雇用の安定に一定の役割を果たしてきた一方、その安定が低い人材の流動性につながり、結果としてスタートアップ企業の誕生と成長を停滞させた側面は否めない。ではどうすればよいのか。多くの人材がリスクを取って新たに挑戦できるよう、セーフティーネットをはじめとした政策の検討がその一つだろう。また、未上場株式市場の整備や規制緩和など、新たな事業に挑む人材に十分に資金を供給できる制度設計も欠かせない。
もはや、戦後でも、高度経済成長でも、バブル景気でもない。既存の大企業であっても、新たな挑戦を目指さなければ市場で生き残ることは難しい。これからの時代では、これまでリスクと無縁だった既存企業の人材にも挑戦を促すことが求められる。
優秀な人材が流動化し、新たな事業に挑む人材への出資が機能すれば、それがスピンアウト創業者の誕生につながる。こうした創業者の生み出すスタートアップ企業が、既存企業との健全な競争を通じて、日本の産業や経済に再び活力を与えることを期待したい・・・

外国人歓迎食事会

先日、外国人の訪日団を歓迎する夕食会に参加しました。相手はヨーロッパで、会話は英語です。単語が出てこなくて、負担なのですが。提供された食事はフランス料理、ワインもフランスワインでよいものでした。

話が弾んで、日本食と日本酒に及びました。で、「日本酒も出そう」と係の人に言ったら、焼酎しか置いていませんでした。残念。
そこで考えたのですが、海外からの訪日客に、洋食を出すのは考えた方が良いのではないでしょうか。私たちは、おもてなしと思っていても、向こうさんにとっては、ふだん食べている料理であり、飲んでいるお酒です。日本に来たら、日本食と日本酒、日本のビールを出した方が、喜ばれると思います。昔のように、日本食が珍しい時代ではなくなりました。

少し状況が異なりますが、思い出したことがあります。若い頃、山奥の村役場を訪れたときです。夜の意見交換会で、山の幸が出ると思ったら、刺身が出ました。当地では生魚は珍しく、貴重品だったのでしょう。精一杯のもてなしをしてくださったのです。同行した先輩が、「ここで刺身を食べなくても良いけど」と小声でぼやいていました。私は、せっかく出していただいたので、おいしくいただきました。

新薬承認の遅れの構造

10月12日の読売新聞「あすへの考」、藤原康弘・医薬品医療機器総合機構理事長の「創薬国復活 臨床試験改革から」から。
・・・海外で承認された医薬品が日本で使えない「ドラッグロス」が深刻化している。かつて米国に次ぐ創薬国だった日本の地盤沈下も課題だ。こうした事態に、政府は医薬品産業を「基幹産業」と位置付け、ドラッグロス解消や創薬力強化へ対策に乗り出した。
必要な薬を患者に届けるには何が重要か。長年、腫瘍内科医としてがん診療に携わり、薬の承認審査などを担う医薬品医療機器総合機構(PMDA)の藤原康弘理事長は「臨床試験の実施体制整備や予算拡充が急務だ。薬が臨床試験を経て世に出る流れを医療者が学び、新たな医療を国民皆で創っていくという意識改革も求められる」とし、この数年が再起への最後の機会になると訴える・・・

・・・2000年代初め、海外で承認された新薬が日本で使えるまでに遅れが生じる「ドラッグラグ」が社会問題化しました。今の「ドラッグロス」は、海外の新薬が日本に導入される予定が立たず、使えないままになることで、問題はより深刻です。
厚生労働省によると、23年3月時点で国内未承認の143品目のうち、86品目がドラッグロスの状態でした。また、ボストンコンサルティンググループの調査では、希少疾患だけでなく、今後、乳がんや糖尿病関連疾患など患者の多い病気の薬にも拡大する恐れがあるとしています。
私が、日本の状況に「何かまずいな」と懸念を抱いたのは、もう25年も前。米国留学から帰国した1997年に、現在のPMDAの前身となる「医薬品医療機器審査センター」が発足し、最初の医師の審査官として着任した頃です。
薬が医療現場に届くまでには、臨床試験で安全性や有効性を確認し、薬事承認を得る必要があります。海外で承認された薬でも、人種差による副作用の出方や医療環境の違いから、日本人での臨床試験が原則必要です。しかし、私が医師になった80年代はもちろん、その後も医師の多くは薬がどう開発され、承認されるかに関心が低く、学ぶ機会もありませんでした。
一方、米国では、80年代からがん領域を中心に臨床試験の方法論が議論され、候補薬を初めて人に投与する初期段階の第1相試験、多くの被験者を無作為に複数グループに分けて効果などを検証する最終段階の第3相試験など、現在の形を生み出していきました・・・
・・・この経験から、帰国後、審査業務に携わることになりましたが、臨床試験に対する日米の意識差を痛感しました。日本では、病院は「治験をしてやっている」、患者や社会は「実験台にされる」との意識が根強かった。米国では、研究者や医療者、企業、患者会、行政がタッグを組み、一緒に新薬を世に出して医療を向上させようとの機運があり、日本もそんな社会にしたいと思いました・・・

・・・その後、国は審査の迅速化や安全対策強化のためPMDAを拡充し、医療関係者らは国際共同治験に参加する動きなどを進め、ドラッグラグは一度、解消しました。
しかし、16年頃から再び国内未承認薬が増えてきました。調べると、聞いたことがない新興バイオ企業が開発した薬が多いことに気づきました。まさに創薬の主役が、国際的な大手製薬企業から、米国を中心とする新興企業に変わってきた時期。画期的な新薬を開発しても、遠い日本の市場など視野に入っておらず、臨床試験の予定もないことが分かりました。
「このままではロス(喪失)になる」と危機感を覚え、これらの薬のデータをまとめ、20年に日本癌学会で発表し、政府の会議などで対策の必要性を訴えました。
日本の創薬力低下も目立ってきていました。高度で多様な専門技術が必要なバイオ医薬品の開発に出遅れたことが一因です・・・

・・・ ただし、その実現には日本の「臨床試験力の強化」が最も重要です。国際水準の臨床試験が実施できる環境整備や人材育成など、必要なことは20年前の科学技術基本計画から指摘されています。これまで「臨床研究中核病院」など拠点整備は始まりましたが、多くの医療機関は日常診療に追われ臨床試験を行う余裕がなくなっています。また、日本企業が主導する国際共同治験は世界の1割程度しかなく日本の先導力が低下しています。中国の台頭もあり、この数年が、日本が創薬国に再興する最後の機会になる可能性がある中、政府は臨床試験の充実に予算をもっと投じるべきです・・・

富と権力と名誉の分散

10月15日の日経新聞夕刊コラム、プロムナード、岩尾俊兵さんの「富と権力と名誉」から。

・・・不思議なことに、日本社会は富と権力と名誉を一カ所に集中させることを嫌う。富は大企業創業者・経団連企業経営者を頂点とする財界に、権力は内閣総理大臣を頂点とする政・官界に、名誉は人間国宝・文化功労者や日本芸術院・日本学士院を頂点とする文化人にという具合である。どうもこの傾向は日本社会全体にとどまらず、社会を構成するあらゆる小社会や組織にも見られるらしい。

財閥系企業においては、富は大株主の投資銀行や投資ファンドが、権力は社長や会長が、名誉は岩崎家・三井家・住友家といった財閥当主が担っていたりする。某財閥系企業は、今でも取締役になると財閥創業家から綱領を直伝される儀式があるそうだ。
変わったところだと、医療業界でも同様だという。富は美容外科の開業医に、権力は厚生労働省の医系技官または大学病院の医局の長に、名誉はノーベル賞候補に挙がるような大学の研究医に集中するというのである。
大学でも同じだ。富は大学にあまり顔を見せずにテレビで活躍する売れっ子が、権力は学内行政に精通する学長や学部長が、名誉は研究一筋で国際的に活躍する研究者が得ることになる・・・

・・・もしかすると、富と権力と名誉の3つの力を分散させるのは、社会や組織を長生きさせるために日本人が長い歴史の中で考えついた知恵なのかもしれない。
もし富と権力と名誉が一カ所に集まっていると、「あいつらが悪い」という風(ふう)に社会の不満が一カ所に向かい、革命が起きやすくなるだろう。かつてのフランス王国でいえば富も権力も名誉も王侯貴族が独占していたためにフランス革命が起きたし、現代アメリカでは富も権力も名誉も資本家が独占しているので革命前夜の状況にある。しかし、日本のように3つの力が偏在していれば特定の集団を攻撃して革命を起こそうと一致団結しにくいし、3つの力の中で互いに互いを批判し合って内側から現状打破してくれることもある。
もちろん例外もある。あるとき、ある人が「うちは富も、権力も、名誉も妻が握っているんですよ」とぼやいていた。そのボヤキからふと気づいた。そうか、逆なんだ。日本においてこれら3つの力を一カ所に集中させた小社会や組織が短期間に滅びてしまっているだけなんだ、と・・・

この後の笑える話が続きますが、それは原文をお読みください。

個人の時速と社会の時速2

個人の時速と社会の時速」の続きです。
社会の時間について、「各人にとって、自分の時間感覚とは違った早さで、社会が変化し、過ぎ去っていきます。夏目漱石や鄧小平が感じたのは、それだったのでしょう。そして、社会の時速は、どんどん速くなっているように思えます」と書いたのですが。

今年は、平成で言うと37年です。37年間を明治に置き換えると、明治37年(1904年)は、日露戦争が始まった年です。この間に、武士の支配を廃止し、新政府を建て、鉄道を走らせ、内閣制度・地方制度・憲法をつくり、軍隊をつくり、日清戦争に勝利してと、大改革と大変化をもたらしました。
昭和に置き換えると、昭和37年(1962年)までの間に、戦争があり、敗戦があり、焼け跡からの復興があり、経済成長に入りました。
戦後で言うと、昭和20年(1945年)+37年は昭和57年(1982年)。その間に、敗戦から立ち直り、西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国になりました。東京オリンピックは昭和39年(1964年)、大阪万博は昭和45年(1970年)でした。三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)、3C(カラーテレビ、クーラー、カー)が各家庭に普及しました。

それらに比べると、この37年間の変化は小さいようです。戦争がなかったことは良いことですが。政治と行政では大きな変化はなく、挙げるとしたら介護保険制度の導入(2000年)でしょうか。身の回りで言うと、新しいものは携帯電話、スマートフォン、パソコンの普及でしょうか。給料は上がらず、非正規労働者が増えました。
「社会の時速(変化)が速くなっている」とは、言いにくいようです。
30年という時間、体感と社会の変化