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社会

「粗品」「愚息」

物をいただくときに、「粗品ですが」とか「つまらないものですが」と言われることがあります。頂き物に「粗品」と書かれたのし紙が、ついていることもあります。へりくだっているのでしょうが。
へそ曲がりは、「そんなつまらないものではなく、もっと立派なものをくださいよ」と言いたくなります。

でも、中身はつまらないものではなくて、よいものが多いのですよね。お店で選んだよい品物を「つまらないものですが」と表現すると、お店の人に失礼ですよね。食事に誘って「粗酒粗餐」でと言うと、料理人に失礼です。
私は、「これは、××で選んだよいものです」とか、「この店の食事はよいでしょう」と表現します。お店を出るときに、料理人に挨拶する際にも「おいしかったです」と言い、連れて行った人にも「よかったやろう」と自慢します。

「愚妻」「愚息」という表現もあります。これもやめた方が良いですね。
キョーコさんに「愚妻」などという表現を使うことは、考えられません。娘も息子も立派に育ってくれたので、自慢の子どもです。
「愚息」なんて言わずに、「うちの立派な子どもです」と言いたいです。孫も、私には自慢の孫たちです。「立派に育ってくれて」という表現もあります。でも、娘の場合は「愚娘」という表現は使わないですね。

高ストレスの教職員

6月28日の読売新聞に「「高ストレス」の公立校教職員は過去最高の11・7%…業務量や保護者対応が要因」が載っていました。

・・・全国の公立小中高校の教職員が加入する「公立学校共済組合」の2023年度調査で、医師による面接が必要な「高ストレス」の教職員が過去最高の11・7%に上ったことが27日、わかった。事務的な業務量や保護者への対応がストレスの要因になっている。
共済組合は16年度から労働安全衛生法に基づく「ストレスチェック」を実施している。昨年度は約32万人の教職員が受検した。
高ストレス者の割合は、調査を開始した16年度(8・9%)以降、コロナ禍で休校が続くなどした20年度を除き、毎年上昇している。中学、高校の教職員にストレスを感じる割合が高く、30~40歳代が多い・・・

最多のストレス要因は、報告書の作成など「事務的な業務量」で、以下、「対処困難な児童生徒への対応」、学校の業務を分担する「校務分掌」、「保護者対応」です。
常に思うのですが、教員の悩みは、授業の進め方ではないのですよね。大学での教員課程では、これらの課題をどの程度教えているのでしょうか。

むやみに謝るのはやめよう

カスタマーハラスメント(これも和製英語のようです)が問題になっています。客がお店に対して理不尽な言動や不当な要求をすることです。暴言を浴びせられたり、無理難題を言われたりします。時には暴行も加えられます。同様な問題として、役所にあっては、行政対象暴力があります。住民だけでなく、議員から暴言や無理な要求を受けることもあります。
役所や企業に非がある場合に、苦情を言ったり代わりの商品を求めることは正当な要求でしょうが、度を超えた苦情や要求は問題です。そして、その場を穏便に済まそうと妥協すると、さらに無理な要求を重ねてきます。

「お客様は神様です」という台詞を誤って理解し、それを転用していることが指摘されています。これは三波春夫さんの言葉ですが、「自分の完璧な歌をお客様に届ける、お客様を神様とみて神前で祈る時のような気持ちで歌を歌う心構えを表したもの」だそうです。それが、「お客様は神なんだから、何をされようが我慢してつくしなさい」というような間違った解釈で使う人が出てきました。朝日新聞「カスハラ問題で引用される「お客様は神様です」の誤解 三波春夫さんの真意は別次元」。

私はこの背景に、日本社会の「すぐに謝る」文化があるのではないかと考えています。例えば、電車の車内放送です。遅延すると「遅れて申し訳ありません」と放送があります。しかし、遅延の原因には鉄道会社の責任によるもの(例えば車両の故障)とともに、鉄道会社ではどうにもならないもの(例えば踏切事故、地震による停車)があります。ところが後者であっても、「申し訳ありません」とわびるのです。乗客から「困るじゃないか」と文句を言われたとき、前者ならお詫びしなければならないでしょう。しかし後者なら「私たちではどうにもできません」としてお詫びする必要はありません。何でもかんでも謝ることが、客を勘違いさせます。
「ひとまずお詫びしておけばよい」という安易な考えが、客を増長させていないでしょうか。

自信過剰の時代から自信喪失の時代へ

6月21日の朝日新聞オピニオン欄、暉峻淑子さんへのインタビューから。
・・・ バブルの最盛期に出版した著書「豊かさとは何か」で、「日本は豊かさへの道を踏み違えた」と警鐘を鳴らした暉峻淑子さん。「画一的モノサシで優劣をきめ、敗者を排除していく社会の流れ」に抗したいと訴えた。あれから30年余。96歳の経済学者の目に、日本社会はどのように映っているのだろう・・・

――いまの若者は、バブルの時代を知りません。いまや、日本の名目GDP(国内総生産)はドイツに抜かれて4位。IMF(国際通貨基金)の調査では2023年の1人当たりのGDPは34位です。
「当時はモノとカネがあふれた絶頂期。日本の1人当たりのGNP(国民総生産)がアメリカを追い越した時代でした。自信過剰で、あふれたカネは株と土地の投機に流れ、地価が暴騰。その後、バブルは崩壊し、不良債権の後始末に苦しむことになります。この国の政治は、お金を教育や社会保障といった社会の共通の土台を築くために使ういいチャンスをみすみす逃してしまった」
「バブルが自信過剰の絶頂期だったとすれば、いまは逆に、自信喪失の時代です。『失われた30年』という言葉に象徴されていますね。でも、変わっていないものがあります。それは『生き生きとした人間の活力が戻ってくるような社会』になっていないということ。19世紀のドイツの経済学者エルンスト・エンゲルが、本当の富は国民の生活水準で表される、と言っています。『豊かな生活』はますます遠のいています」

――具体的には?
「例えば、労働時間は相変わらず長く、社会保障も削減される一方です。新自由主義によって非正規労働が広がり、フリーランスや、ギグワークなど生活の計画を立てられない働き方が多くなりました。偏差値重視の教育もそう。私たちの意識の画一化、つまり権力を持つものになびきやすいという特徴も変わっていません」
「多数の人々が、競争社会の中で認められたい、いい地位についてお金持ちになりたいっていう、一つの価値になびいている。経済価値優先に目を奪われ、人権や個人の尊重という大切な価値を置き去りにしたままなのです」

不安な未来より過去の縁

6月18日の朝日新聞オピニオン欄「サヨナラができない」から。
・・・「サヨナラだけが人生だ」という言葉がある。その通りと思ってきた。だが、スマホ1台で地球の果てまで「つながり」に追跡される時代は、「サヨナラできないのが人生だ」なのかも。

「不安な未来より過去の縁」 土井隆義さん(社会学者)
かつて若者の交友関係は、中学、高校、大学へと進学するに連れ、入れ替わっていくのが常でした。でも今は違っているようです。高卒で就職した同窓生と会って遊んでいる大学生はよく目にしますし、中学時代の仲間も「同中(おなちゅう)」と呼んで大切にしています。
近年は生まれた土地の人間関係がずっと維持されて、生活拠点が変わっても付き合いが消滅することはあまりありません。惜別と出会いで関係が更新された時代とは異なっています。

交友関係が入れ替わらない理由に、LINEのようなツールの浸透があるのは事実でしょう。しかし彼らの心理として、新しい関係を作ることへの不安が大きいのもまた事実です。
1990年代から2000年代にかけての日本では、ネットの発達にとどまらない大きな変化が起きています。1人当たりのGDP(国内総生産)も実質賃金も上昇から横ばいへと転じ、右肩上がりの時代が完全に終わったのです。
かつての若者にとって、未来とは目前にそびえる山のようなものでした。努力して登れば、一段高い自分になれると信じられた。しかし今の若者には、未来は平坦な高原としか映っていません。しかも霧がかかっているし、下りもあるかもしれないと感じてしまう。

「大学生の生活と意識に関する調査」(20年)では、「日々の生活で考えていることは」の質問の回答で、「よりよい未来を迎えられるよう」が約17%に対し、「過去を振り返りながら」が約30%と大幅に上回っていました。
積極的に未来へ目を向ける若者もいます。しかしそこでも「これから」の不安を減じる保険であり、時には命綱となるのが「これまで」の人間関係です。
一番安心できるのは血縁で、どの調査でも近年は家族を大切に思い、両親を尊敬する若者が多数派です。生まれた地域に今後も住み続けたいと答える者も多い。幼少期から同じ環境で気心の知れた仲間が「これから」の資産なのです。
血縁や地縁のような、かつて多くの若者が「しがらみ」と感じて嫌い、抜け出したいと願った「枠組み」に、むしろ積極的に包摂されることで安心感を得たいと思うのが今の若者です・・・