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社会

ソーシャル・ディスタンス?

奥井智之先生の「不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由」には、次のような指摘もあります。「ネット記事のコメント欄とSNSのはかなさ

・・・今回のコロナ禍の下で、人々は、たえず身体的距離をとるように求められてきた。
「社会的距離(social distance)」は、本来、人々の親密度を測る指標である(家族のメンバーは遠くにいても、その「社会的距離」は近いのが普通である)。したがって、ここでは、「社会的距離」と「身体的距離」を区分する。
理論的には、「身体的距離」を取ったからといって、「社会的距離」が広がるわけではない。しかし、「身体的距離」の拡大は、「社会的距離」の拡大のリスクを、つねにともなっている。それが、コロナ禍の下で、わたしたちが直面してきた、根源的な危機である・・・

連載「公共を創る」で、孤立を書いているところです。そこでは、孤立しないように他人や社会とのつながりの重要性を指摘しています。
先生の指摘にもあるように、ソーシャル・ディスタンスは、本来は社会的距離であって、人の親密度です。ウイルス感染を防止するために他人との間に距離を置くことは、物理的距離や身体的距離です。家族や友達とは遠く離れていても、社会的距離は近いです。

「ソーシャル・ディスタンスをとる」では、「他人との社会的つながりを断ちましょう」という意味になってしまいます。よもや「家に引きこもって、他人との連絡も絶ちましょう」と呼びかけているのではないでしょう。
「距離を取りましょう」「間隔を空けましょう」では、なぜいけないのでしょうか。

ネット記事のコメント欄とSNSのはかなさ

先日、紹介した奥井智之先生が、講談社のウエッブサイト「現代ビジネス」に「不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由 電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する」を書いておられます(5月22日掲載)。
ネット記事のコメント欄とSNSに、なぜ人は書き込むのか、そして議論は成り立たないのかについて、社会学から説明しておられます。

・・・ネット記事は儚(はかな)い。
それが、一定の鮮度を保って、人々の前に姿を見せるのは、ほんの一瞬である。良い記事も悪い記事も、次の瞬間には、最初から存在しなかったかのように、ネット世界から姿を消している。
もちろん、それは、アーカイヴ化されているのであろう。しかし、特定の記事を、アーカイヴ(保管庫)のなかで探すのは、特別な目的がある場合に限られる。実際、わたしは、ネット記事がどこかで引用されているのを、見たためしがない。
とどのつまり、ネット記事の寿命は、ごく短い。筆者は、その一瞬に賭けて、自らの作品を、ネット世界に投げ込むほかはない。
オンラインの先には、読者が待っている。正直言って、わたしは、その読者の実態を知らない(わたしは、このネット世界にたまさか迷い込んだ、よそ者にすぎない)。ただ、ネット記事の読者として、しばしば遭遇するのは、その記事が、読者のコメント欄で酷評されている光景である・・・

・・・そこでは、ネット記事を批評することよりも、その記事をダシにして、自らの識見を誇示することが、目的となっているように映る。批評家の小林秀雄は言った。
「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠』)
「懐疑的」であるかどうかは別にして、ネット記事のコメント欄に横溢するのは、激しい自己呈示の欲求である。
ネット記事に、コメント欄が付いているように、コメント欄にも、個々のコメントへの賛否を表明するアイコンが付いている。
わたしのよく見るサイトの場合、デフォルト(初期設定)では、賛同者の多いコメントが、コメント欄の上位に並ぶようになっている。そして、上位のコメントの内容は、おおよそ似通っている。裏を返せば、意見が分かれて、議論が交わされる光景は、まず目にしない。
そこには、コメント欄のもつ、もう1つの機能が映し出されている。それは、他の(どこのだれとも知れない)多くの読者と協調することで、自らの意見の正当性を確認することである。一言で言えば、そこには、温かい相互承認の儀礼がある。
激しい自己呈示の欲求と温かい相互承認の儀礼──。この2つは、いったい、どのように結びついているのか・・・
続きをお読みください。

閉鎖的な学校を変える

5月18日の朝日新聞オピニオン欄「学校と親との距離」
・・・学校と保護者の関係が揺れている。保護者がPTA活動の負担を訴える一方、長時間労働で疲弊する学校では保護者の声に対応する余裕が奪われている。どうすればいいのか・・・

西郷孝彦・東京都世田谷区立桜丘中学前校長の発言「閉鎖性を変えるのは校長」から。
・・・いまの学校の多くには、閉鎖的な風土があります。悪い評判を立てられたくない。生徒の問題行動を見られたくない。その内向きさが保護者との距離を遠ざけています。
新しい挑戦をしようとすると「みんなと違うことをするな」と、教育委員会や近隣の学校、ときには保護者から問われ、責められる。結局は前例を踏襲し、右にならい、情報も出さないことが正解になってしまう。ただでさえ仕事量が多いなかで保護者への対応が負担になれば、精神的に追い詰められてしまいます。
そうした教員を取りまく環境の問題が根幹にはありますが、私は、まず校長が自ら保護者と接することで閉鎖性を和らげられると思います。私は直接会う機会をつくり、メールアドレスも保護者に公開しました。情報を共有しあえる関係づくりが大切です・・・

奥井智之著『宗教社会学』

奥井智之著『宗教社会学  神、それは社会である』(2021年、東京大学出版会)を紹介します。
目次を見てもらうとわかるように、信仰、教団、儀礼といった、宗教になじみのある項目のほかに、経済、学問、芸術、スポーツ、性別といった、なじみの薄い項目が並んでいます。この本は、宗教学ではなく、宗教を素材にした「社会学」です。宗教を分析するのではなく、宗教を使って社会を分析するのです。

宗教は、近代社会では非合理的なものとして、影響力が低下しました。他方で、私たちの生活や社会がすべて合理的に説明できるものでもなく、説明されても納得できないこともあります。そこに、人は、神あるいは人知を越えたものを信じます。
現在の学問では、人と人のつながりを、政治(権力的関係)、経済(取引による関係)、互恵(助け合い、コミュニティ)の3つで説明します。宗教という「非合理的な関係」は、この3つの外です。しかし、芸術、スポーツなども、3つでは説明できません。
この本は、先に挙げたさまざまな項目で、私たちの生活に神が残っていることを説明します。

社会、私たちの生活の多様な面を、宗教を鍵に説明します。読んでいて途中から、「次の項目(例えばスポーツ)について、著者は、どのように議論を展開するか」を想像しながら読みました。読んで納得しつつ、「私なら、このように書くなあ」とも考えました。
「わからないことは、学問の対象としない」ことになっている現在の学問の世界で、著者の試みは、どこまで理解されるでしょうか。
読みやすく、わかりやすいです。社会学入門書にも、なっています。他方で、先生の実体験も織り込まれていて、話が身近になり、理解しやすいです。お勧めです。

インターネットとの付き合い方

5月14日の朝日新聞オピニオン欄、ドミニク・チェン早稲田大学准教授の「わかりあえなさと共に」から。
――コロナ禍で人に会う機会が減り、ネットに1人で向きあう時間が増えました。コミュニケーションの研究者として、この1年あまり、なにを感じてきましたか。
「大学の現場では試行錯誤が続くなか、講義を映像でいつでも見返せるようになるなど、合理的な変化も起きました。オンラインでも、学生たちと一緒に学んだり、現状に対して批評的に考えたりすることはできると感じています」
「ただ、会って話すときのコミュニケーションの豊かさは、簡単には置き換えられません。人は本筋とは関係ないノイズ、つまり雑音のような情報の海の中を漂いながら、コミュニケーションを成立させるための信号を発したり受け取ったりしています。しぐさ、表情、あいづち……。この研究室の書棚の本の背表紙や置物、窓の外の風景も、理解を深める大事な情報です」
「それが、オンラインでは顔と声を除く膨大な量の情報がそぎ落とされてしまう。相手が置かれている環境や言葉の裏の感情を読み取ることは難しい。自分の話し方も、つたなくなっていく」

――グーグルやアップル、フェイスブックなど「GAFA」と呼ばれる巨大IT産業が、こうした情報を差配しているとして、批判も強まっています。
「米国の西海岸に特有の、技術が進化すれば人類の悩みは解決するという、テクノロジー信仰と自由放任的な資本主義があいまって、フィルターバブルやSNS上の分断を加速させた、ということは言えるでしょう」
「収益を最大限にするため、利用者の自社アプリに対する中毒状態をいかにつくるか――。米国から中国まで数学や心理学の博士号を持つ世界の天才たちが、そんな仕事をしている。スマホのアプリは、利用者の特定の情報に対する飢餓感を誘発するように設計されている。反倫理ではないが、非倫理。悪意はないが、倫理の要素が抜け落ちていた。選挙の操作や若者たちへの精神的な影響などが指摘され、規制や再考を促す議論が始まっているところです」

――著書「未来をつくる言葉」を書くきっかけにもなった娘さんは9歳。デジタルとはどう付き合っていますか。
「注意を収奪されるものは使わせないようにしています。たとえば、ユーチューブは自動再生機能があるので、自分で選択したのではない情報に満足する状態に慣れてしまう。大人も中毒になりかねないものを無自覚に子どもに与えるのは、危険だと思います」
「ネット中毒とは、自らの意思とは関係なく時間を奪われてしまうことです。リテラシー(見極める力)を高めるためには、日本でも広くプログラミングを教育に取り込むべきです。そうすれば、子どもはプログラムの設定を少し変えるだけで情報の出方が違うことを体感できる。自分が企業の設計しだいで操作されてしまう世界で暮らしていることもわかります」