カテゴリー別アーカイブ: 社会

社会

大谷翔平選手、104年ぶりの快挙

アメリカ大リーグ野球で、大谷翔平選手が、投手として2桁勝利、打者として2桁本塁打を達成しました。ベーブ・ルース以来、104年ぶりのことだそうです。すごいです。うれしいことです。

8月6日の日経新聞、安田秀一さんの「日本人が持つ可能性 なぜ大谷が生まれたのか」に次のような文章があります。

「なぜ日本からiPhoneが生まれなかったのか?」日本の昨今の経済の低迷を語る上で、象徴的に語られる言葉です。縦割り社会、官僚的体質、顧客目線より上司目線、などなどその原因は様々ですが、いまだに解決できていないからこそ、なかなか経済は発達しません。
では、「なぜ日本から大谷翔平が生まれたのか?」という視点でモノゴトを見てみるのはどうでしょう?!
勤勉さや真面目さが取りえの日本人が、器の大きなリーダーのもとに正しく最新の情報に触れて、懸命な努力を続ける。弱みが強みに変わり、大谷選手のような存在が各界から次々と生まれるのではないか?!
常識にとらわれない。上下関係をつくらない。世界の最新情報を手に入れる。若者の真の意見を聞く。
政財界のリーダーの方々には、「大谷翔平を見ろ! 日本の大空にキラキラ輝いているじゃないか!」という言葉をささげたいと思います。

この文章の前には、次のようなことが書かれています。

前回のこのコラムで僕は、「後進的と思われる日本のスポーツの現場からその競技をリードするような若者が現れているのはなぜだろう」と問題提起しました。いろいろ考えてみましたが、こんな仮説を考えています。
「日本人の特性とされる勤勉さ、真面目さにその理由があるのでは?!」
礼儀正しく真摯に野球に取り組む大谷選手の人柄からは、日本人の特性や美意識を強く感じます。我々日本人は自己中心的な考え方や感情的なふるまいを好みません。新型コロナウイルスの感染対策でも、欧米では法律で規制しましたが、日本はマスク着用を「お願い」するだけで、みんなが従いました。僕は、これまで日本のスポーツが追いつけなかったフィジカルで肩を並べたとき、こうした日本人らしい真面目さが優位に働いてくるのでは?と考えています。

ただ、そうした特性は自己主張や個性を嫌う同調圧力にもつながり、社会の進化を妨げる側面があることも否定できません。このコラムで僕はその弊害を何度も指摘してきました。つまり、もろ刃の剣なのです。一つ間違えれば我々の弱点となるこの特徴を、有効な武器として働かせるにはどうしたらいいのか?!
僕は、一にも二にも「情報」だと思っています。情報が入りづらかった島国の日本ですが、今はインターネットやスマホでいつでもどこでも世界の最新情報が手に入れられます。あふれるほど情報化が進んだ現代ではありますが、大谷翔平選手や佐々木朗希投手、あるいはボクシングの井上尚弥選手ら今までの常識を覆すような選手たちが、キラキラ輝くスポーツ界の北極星になるはずです。つまり、世界で活躍するトップアスリートたちが、正しい情報を見定める絶対的な基準になっていくと思っています。

スポーツ界を見ていると、情報統制型のリーダーは成果を上げられない時代になったことがよく分かります。既存の価値観にとらわれず、みんなで常に新しい情報をアップデートし、みんなで共有して試行していく。帝京大学ラグビー部の岩出雅之前監督がその筆頭ですが、そんな器の大きなリーダーがスポーツ界では結果を出しています。

「みんな違ってみんないい」のか?

「みんなちがって、みんないい」という言葉をよく聞きます。戦前の詩人、金子みすゞさんの詩にある言葉で、小学校の教科書にも載っているようです。
社会ではこれでは困ることを、「こども食堂3」で紹介しました。湯浅誠著『つながり続けるこども食堂』(2021年、中央公論新社)に次のような指摘があります。
「みんなちがって、みんないい」はよいことか。家族旅行に行くときに希望を聞いたら、父はハワイ、母は温泉、姉はディズニーランド、私はどこも行きたくない。では、みんなバラバラに行くのがよいのか。困りますよね。

山口裕之著『「みんな違ってみんないい」のか?――相対主義と普遍主義の問題 』(2022年、ちくまプリマ―新書)は、この問題を哲学の系譜で説明したものです。人や文化によって価値観が異なり、それぞれの価値観には優劣がつけられない」という考え方が相対主義であり、「客観的で正しい答がある」というのが普遍主義です。道徳と事実の二つにおいてそれらを議論します。
「正しさは人それぞれ」「みんな違ってみんないい」という主張は、共同生活で何か一つを選ばなければならない場合に、権力者の意向で結論を決めることを正当化することにつながります。「客観的に正しい答がある」という主張は科学や専門家の意見を尊重することですが、科学者の間でも一つに定まらないことがあります。科学もまた、科学者たちが「より正しそうな答え」を探し出すものです。

山口さんの答えは、共同作業によって正しさが作られていくというものです。社会における正しさは、各人が決めてよいものでもなく、権威ある人が決めてよいものでもなく、みんなで議論して「正しさ」を作っていくものです。

バラバラな人たちの病理

7月19日の朝日新聞「元首相銃撃 いま問われるもの」、宮台真司さんの「バラバラな人々に巣くう病理」から。

――なぜ(旧統一教会は)多くの信者を集めることができたのでしょうか。
「米国でも同時期、人工妊娠中絶や進化論を否定するキリスト教原理主義が影響力を持ち始めました。共通点は、資本主義が拡大するなかで、『不全感を抱く分断された個人』が量産されたことです。かつて就職や結婚から調味料の貸し借りまで生活の便益は、家族や地域の人間関係からなる生活世界を通じてのみ手に入りました。だが、市場や行政のシステムを頼るようになった結果、面倒がなく便利になった半面、人間関係が希薄になりました」
「20世紀半ばに社会学者ラザースフェルドは、中流化による豊かな人間関係が、健全な民主主義を支えるとしました。だが世紀末からのグローバル化による中流分解で、剥き出しになった個人が、不安とデマに直撃され始めました。そこにつけいる形で、独特の世界観で支持者を束ねる宗教団体が、集票力によって政治的影響力を増しました。かくして内政面では『政治の原理主義化』、国際的には『原理主義のグローバル化』が起きるようになりました」

――現状はどうですか。
「互いにバラバラで『呼んでも応えない周囲の人』と、システムが複雑化して『呼んでも応えない統治権力』は、不全感に駆られた剥き出しの個人を一定割合生みます。そこに、自分と社会の現況を説明し、生きる意味を含めた『確かな物語』を与えてくれるカルトが必ず巣くいます。95年のオウム真理教事件もそうでした。私は、95年の著書で『終わりなき日常を仲間とまったり生きろ』と、身近な人間関係を支えとする処方箋を示しましたが、状況は変わらないどころか、その頃からの経済停滞と生活世界の空洞化で、問題は深刻化しました」

インターネット・プラットフォーマー、情報操作の危険

7月8日の読売新聞「岐路の資本主義」、村井純・慶応大教授の「デジタル時代の情報危機」から。

・・・インターネットを使うようになって30〜40年たったが、最初は学術界やネットを作った人間のためのものだった。その頃はごくわずかな人しか使っていなかった。当時から「(次世代のネットとされる)ウェブ3」や「(ネット上の仮想空間)メタバース」のような構想はあったが、利用者が少なかったので夢物語だった。
今はほとんどの人がネットを使うようになった。ネットはメディアの役割も担うようになり、そこに近づきつつある。現在は米グーグルの検索サービスや巨大IT企業のSNSが媒介して情報を届けたり、利用者と双方向のコミュニケーションができたりしている。
サービス上では、誹謗中傷やフェイク(偽)ニュースなどが流通しているという課題があるが、過渡期だと思う。
プラットフォーマーは、利用者の要望に沿って対応する。それはやるべきことだし、実際に自主的に進めてきた。
しかし、もう一つのアプローチとして、私たちが新たに何を作るべきかを考えないといけない。本質的には、情報の提供者と受益者(利用者)がどういう関係にあるべきかを追求していくことが一番大事だ・・・

・・・こうしたネットの課題を解決するのに、行き着くところは国際標準化だ。コンテンツと広告の関係に課題を感じる人たちが参加し、プラットフォームの構造を変える標準化の議論を進める必要がある。
こうしたネット上の標準化に向けては、日本企業の参加意識が薄かった。ネットは地球全体で一つの空間なので、日本が自分のこととして参加すべきだし、同じように考えている世界中の人と力を合わせた方が良い。プラットフォームの今のあり方に問題があるとすれば、標準化に参加するべきだ。現状に問題意識を持っている人はいっぱいいるので、そういう人たちと手を組んで、直していかなければならない・・・
・・・標準化に向けては、日本だけのガラパゴスではなくて、世界中で受け入れられることを念頭におく必要がある。
私は50年後のネットはどうなるか、というような会議に参加することが多い。参加者はみんな、信頼や倫理が大事だと言う。信頼と倫理で質の高い文化を持つ日本に対する期待はすごく大きい。日本人が精度の高いサービスやシステムを作ることや、災害時に助け合うことが知られているからだ。
私は日本でなければできない可能性があると楽観的に考えているし、日本が貢献すべき領域だと思う。この議論はあちこちで熟しているので、関係者で合意ができればそう遠くないうちに先に進むだろう。3〜5年で新しい世界ができても全然不思議ではない。

過去のインターネットの発展には、常に複数の岐路があり、修正しながら進んできた。地上がインターネットで覆われ、すべての人が使うという、理想として掲げてきたことはすべて実現している。衛星でインターネットがつながるようになり、山の奥まであらゆることがデジタルデータを通じた「知」として合成されていく。そのときに、情報に対する考え方が大きく発展するのではないか。
私たちは自分の考え方や生き方を守りつつ、発展していくことから目をそらさず、言いたいことを言い、問題があれば解決策を提案し一緒にやる。こういうことができる雰囲気ができていくのが、これからの社会ではないかと思う・・・

落第のない日本

7月8日の日経新聞1面「成長の未来図 知で越える危機」「異能が呼ぶ革新、果実に ギフテッド封じる平等主義」は、飛び級がないことを指摘した記事です。
各国の15歳時点での在席する学年が割合が図で示されています(経済協力開発機構調べ)。日本は、飛び級がないのに対し、各国では標準より上の学年に在籍する生徒が結構な割合でいます。

ところで、私が注目したのは、その逆の場合です。本来の学年より下の学年に在籍する生徒です。「落第」などです。日本は、この生徒もいませんが、外国には結構いるのです。
でも、すべての小中学生が、きちんとその学年に学ぶことを身につけることができるか。授業が成り立たない荒れた学校や、先生の言うことを聞かない生徒もいます。それでも、全員進級進学できるのです。おかしいですよね。学校からすると、面倒なことはせずに、早く出ていって欲しいのでしょうね。
ここにも、きれい事ですませる「教育現場」が現れていると思います。

舞田敏彦「飛び級、落第を許さない日本の「横並び」主義が生む教育の形骸化」(ニューズウィーク日本版2021年1月6日)