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社会

その場所のための建築

6月5日の読売新聞言論欄、建築家の田根剛さんへのインタビュー「建物の可能性 その場所のための建築を
・・・誰が設計を手がけたか、ひと目で分かる建物がある。未知の巨大生物を思わせる曲面、むき出しのコンクリートの質感、近未来都市のイメージ、等々。どこの国でも、どんな街でも、その人らしいにおいを放つ。パリを拠点に活動する田根剛さんは、まったく違う道を進む。「建築家のスタイルより優先すべきものがある」と言い切るのだ。「建築家は場所のために仕事をしている」とも・・・

・・・ここ20年の間に、建築家がグローバルに活躍できる土壌ができました。それまでに準備しておいた建物のデザインを、まったく無関係な土地へと持っていく。スターの建築家のデザインが置かれると街が元気になる、見たこともないものは活性化の起爆剤になる、というので、世界のスター建築家たちのデザインが世界のどこにでもある状態になりました。
そのスタイルは明快で、数も多くつくられる。しかし日本国内では、そうした建築がやすやすと壊されかねない。建物の新しさに驚いても、その驚きは3年もするとなくなって、古くなったので取り壊し、という流れになるのです。

建物の寿命が人生より短くなります。人生を超え、人生を支えてくれるはずの存在を、人間が消費し、壊すということを繰り返している。建築はもっと人生や街を支えたり、社会をつくったりしていく存在であるべきではないか。
到達した結論はこうです。スタイルを街に押しつけてはいけない。建築家その人のスタイルよりも前に、一つひとつの建物のスタイルが優先されなければならない――。自分の知識や技術を使い、その場所のための建築をする、そういう建築家になりたいと思うようになりました・・・

現代社会の時間泥棒

『モモ』という童話を読まれたことがありますか。ドイツの作家ミヒャエル・エンデの作です。1973年にでていますから、私は大人になってから読みました。あらすじは、本を読むなり、インターネットで見てください。
大人たちが、時間を節約することに熱心になり、逆にゆとりをなくすという話です。現代社会の時間に追われる私たちを風刺しています。すばらしい内容なのですが、子どもには難しいと思います。

豊かになるための手段が、そのうちに目的になり、本来の目的が失われることがあります。お金がそうでしょう。豊かな生活を送るために、お金を儲ける。ところが、お金儲けが目的になって、豊かな生活が送られなくなるのです。時計もそうです。計画的な時間配分をするために作った時計。ところが、その時計によって私たちの行動が管理され、振り回されるのです。

最近では、スマートフォンが典型です。便利のための道具なのに、朝から晩までスマホに支配されています。
「常時接続」という言葉があります。専門的には、コンピュータが常にインターネットと接続状態にあることをいいますが、私たちの日常生活では、携帯電話やスマートフォンにメールや電話がいつでもかかってくることに使えます。
コンピュータの常時接続なら、自分の都合に合わせて使えばよいのですが、スマートフォンの場合はそうはいきません。時と所をかまわずかかってきます。無視すればよいのですが、気になって見てしまいます。持ち運びが簡単なので、屋外でも、電車中や歩きながらでも、応答します。「何か来ていないか」「すぐに返事しないと」と不安になるようです。そして、自分の時間を取られてしまいます。

スマホの画面を見て、指で操作をしていると、「何かをやっている感」があります。これもくせ者です。やっている感ですが、時間も脳もスマホに支配されています。時間泥棒は脳泥棒でもあります。
スマホにのめり込んでいると、人に会う、旅行に行く、本を読む、商店街に行く、運動をする・・・。そのような行動と選択をしなくても良いのです。自分の行動を支配されています。

便利さを求める。それは心身ともに豊かな生活を送るための道具だったはずです。しかし、見る人をとりこにする刺激的で面白い内容、いつでもどこでも使えるという便利さが、使う人から時間と考えることを奪っています。作った物に使われる逆説。
「すき間時間にできます」とは、そんなわずかな時間までもが、スマホに取られてしまうのです。究極の「時間泥棒」です。

動画を倍速で見る若者たち

5月28日の朝日新聞読書欄で、宮地ゆう・副編集長が副編集長が、稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(2022年、光文社新書)を取り上げていました。「余裕ない若者の「自己防衛策」

・・・映画などの動画を早送りで見る習慣が、若者の間に広まっているという。多くの人が、「一体何のために?」と思うだろう。だが、「いまどきの若者は……」と切り捨ててしまう前に、まず本書を読んで欲しい。お金も時間も余裕もなく、SNSやリアルな社会からプレッシャーを受けて生きる世代の姿が痛々しいほどに浮かび上がる。
著者が行った大学生の調査では、倍速の視聴を「よくする」という人は35%、10秒ごとに飛ばす視聴を「よくする」という人は50%いたという。
彼らはSNSで友人との話題について行くために数をこなす必要がある。だから、手っ取り早くあらすじを知りたがる。
2時間の映画をゆっくり見ていた世代とは経済状況も違う。大学新入生の仕送りによる生活費は、約30年前の約4分の1。授業もバイトもあり、娯楽にかけられる時間やお金は圧倒的に少ない。時間の無駄だったと思わないよう、あらすじを知った上で作品を選ぶ。ストレス過多の彼らは、難解な作品、感情を乱される作品は求めていない。
こうした受け手の変化は、作る側にも影響し始めている。沈黙で感情を表現するなどという場面は早送りされてしまう。「苦しい」「痛い」といった登場人物の心の声まで字幕にして、わかりやすい物語を作る・・・

5月26日の読売新聞も取り上げていました。「広がる「倍速視聴」メリットと不安
・・・「ウルトラマンマックス」やアニメ「サザエさん」などのシナリオを手がけた脚本家の小林雄次さん(42)も現状に不安を感じている。
主人公がピンチに追い詰められた末に勝利するから感動が大きくなるように、脚本家は視聴者をひきつけるため、ストーリーに緩急をつける。ところが、暗い話は「停滞」、沈黙シーンは「無意味」と捉えられる――。そんな風潮を危惧しているという。小林さんは、「映像作品は『時間の芸術』とも言う。見たいところだけを見ると、作者の意図が伝わらない」と複雑な心境を明かす。
倍速視聴によってコミュニケーション能力の低下を招く可能性もある。

玉川大脳科学研究所教授の松田哲也さん(認知神経科学)によると、人は作品の登場人物のやり取りから、実生活に役立つ対人スキルなどを学ぶという。例えば、「いいよ」など同意の返事一つとっても、相手の返答までの間や目線の動き、頬のこわばりなど、様々な情報から同意の程度を読み取ろうとする。倍速だと細かい情報を見落としてしまい、推察力などを習得する機会を無意識のうちに失うそうだ。
松田さんは、「倍速視聴は効率的だが、得られる情報量は減り、感情移入しにくくなる場合がある。その功罪を理解して使うことが大切だ」と助言する・・・

6月10日の朝日新聞文化欄「倍速視聴、現代を生き抜く戦略 時間のコスパ重視、20代49%が経験」も、取り上げていました。

利他の精神

5月29日の読売新聞言論欄、批評家の若松英輔さんの「利他の精神で生きる…温かい言葉 かけてみませんか」から。
・・・利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点があると思います。コロナ禍をきっかけに広がった面はありますが、日本では約1200年も前から使われている古い言葉なのです。
競争社会では、暗黙のうちに誰かを蹴落としていくことが日常になりかねません。人々の分断、格差も強まっている。そうした出口のない状況で待ち望まれていた言葉だったのではないでしょうか。
利他とは何かを考えるとき、鍵になるのは「つながり」と「弱さ」ではないかと思います。利他への目覚めには、様々なところに契機があります。コロナ禍だけでなく、大災害やロシアのウクライナ侵攻のような事態が起きると胸が痛む。それは、遠く離れた場所であっても見えない「つながり」を感じているからです・・・

・・・利他という言葉が、日本で用いられたのは9世紀初頭で、真言宗の開祖空海と天台宗を広めた最澄によってでした。2人は、ほぼ同時期に唐で学んだ平安仏教を代表する高僧です。最澄が唱えた「 忘己利他もうこりた 」は、自らの立場を忘れて困難や苦しみを引き受け、よきことを他者に手渡していきたい、という悲願です。「自利利他」を説く空海は、自分と他人のつながりを軸にすえ、「修行で自己を深めることと他者の救済は一つである」といいました・・・

・・・多くの人が利他の対義語と考えがちな「利己」の「利」は儒教的には、必ずしも肯定的な意味ばかりではありません。そこには利に走ることへの戒めがあり、利他を肯定的な意味で用いる仏教とは流れを異にします。
西洋では19世紀、フランスの哲学者オーギュスト・コントが「愛他主義」を唱えています。コントの哲学を端的にいえば、他者の立場に立って考え、生きることになります。その対義語として、自分の視点からのみ世の中を見るという意味で、利己主義(エゴイズム)という言葉も使われたのです。
しかし、コントのいうように他者の視座に立ち続けるのも、空海の「自利利他」や最澄の「忘己利他」を実践し続けるのも、普通の人には容易ではありません。むしろ私たちは、日頃意識していなかった他者とのつながりのなかに自己を見つめ直しつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればよいのではないでしょうか。利他的な人生ではなく、利他的な瞬間を生きるのです。
私はカトリック信者ですが、利他は宗派を超えた広義の宗教の原点といってよいものです。日本では自らを無宗教者と考える人が少なくありません。それでも、誰かのために「思わず祈った」ことがない人は、かえって少ないのではないでしょうか。特定の宗派に属することと宗教心を抱くということは同じではありません。だからこそ、平安時代に生まれた利他という言葉が、今も広く使われているのだと思います・・・

ウケるマンガの男女の違い

5月の日経新聞「私の履歴書」は漫画家の里中満智子さん、18日は「青年誌に挑戦」でした。
・・・少年誌と少女誌には、大きく違うところがあった。
少女誌は、読者の年代別にたくさんの種類があるのに対し、男性は、小学生も30代も、同じ雑誌を楽しむ。
私がよく仕事をした講談社の漫画誌を例にすると「なかよし」は小学生向けだから友情や親子関係、「少女フレンド」では中学生向けに初恋、高校生以上が読む「mimi」では恋の葛藤、など雑誌ごとに漫画を描き分けていた(「少女フレンド」「mimi」は1990年代に休刊)。しかし「少年マガジン」は、ほとんど全世代の男性が手にとっていた時期があった。

少年誌の編集者に、男性の世代別の好みの違いを尋ねたことがある。すると「違いはありません。男子にウケるシーンは全世代で同じです」との答え。「どんなシーン?」「闘って勝つ場面です」
笑ってしまった。常々、男女は平等であるべきだと願っている私だが、この2つの精神構造には、無視できない違いもあるのかもしれない。簡単にいえば、男はいつまでもロマンチスト。女はリアリストで、目の前の現実に関心がある・・・