「社会」カテゴリーアーカイブ

社会

訂正し歩み寄る

10月27日の読売新聞夕刊、東浩紀さんの「訂正し合い 歩み寄る」から。詳しくは原文をお読みください。

—『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)とその入門・実践編の『訂正する力』(朝日新書)と出版が相次いでいます。今、なぜ「訂正」をテーマにしたんですか。
東 とにかく今の日本社会は訂正をしない。政府は公文書を隠し、質問にも正面から答えず、批判勢力も一度方針を決めたら、それを曲げない。そのため変化に対応できず、社会が停滞しているという問題意識がありました。

—「君子豹変(ひょうへん)す」といい、論語の「過ちを改むるに憚(はばか)ることなかれ」といい、訂正は本来いいことなのに、なぜ嫌がられるようになったのか。
東 「論破」したら勝ちという風潮が強まり、意見を変えると矛盾を糾弾するなど訂正に不寛容な社会になっている。SNSの発達で、過去の発言が全部記録できるようになり、意見を変えると叩かれやすくなったことも影響しているでしょう。
—もの言えば唇寒し、では対話する気が失せますね。

東 一方で、批判されることを恐れ、口当たりのいいことばかり言う風潮にも疑問があった。対話というのは、みんながわかり合うことが見えない目標ですが、そこにたどり着くには「ここは違うよ」とか、お互いの発言を訂正しあうことが大事です。だから、東日本大震災が起きた3・11以降、「寄り添う」という言葉が流行したときには違和感がありました。
—というと?
東 相手の言い分を聞いて、「その通りだね」「わかる、わかる」とうなずくだけでは事態は何も動かないじゃないですか。もちろんケアは大事だけど、ここぞのときには、「それは違うよ」と言わないと、対話にはなりません。

「迷惑掛けさせていただきます」2

迷惑掛けさせていただきます」の続きです。読者から、次のような指摘がありました。
・・・「させていただきます」ことばは、相手に毅然とした態度を示して反論させないために使うことがあります・・・

そうですね。時代劇で妻が夫に対し、「実家に帰らせていただきます」と発言する際は、「あなたとは一緒に暮らしていけません。離婚です」と宣告しているのですよね。
「お皿を下げさせていただきます」のように、相手に奉仕をする際に同意を求めるのとは全く違う使い方です。夫がなだめようとしても、「させてやらない」と言っても、妻の決心は固く初志を通すでしょう。
「させていただきます」は、状況によって意味合いが異なるようです。
では、「発売を中止させていただきます」は、相手に反論させない毅然とした態度でしょうか。すると、「殴らせていただきます」も、あり得ますね。

もっとも離婚宣告の場合も、夫が妻に対して「離婚させていただきます」とは発言しないでしょう。これは、かつての男女の役割や地位の違いを反映しているのだと思われます。

「迷惑掛けさせていただきます」

私の嫌いな言葉「させていただきます」についてです。許可を求める場合は納得します。身の回りのことについて奉仕してくれる場合、例えば食事が終わった後、店員さんが「お盆を下げさせていただきます」と言うのは、おかしくないですよね。
でも、相手に迷惑を掛ける、不便を強いる場合に、「させていただきます」と表現されると、「ほんまに相手のことをおもんぱかっているのか」と疑問に思います。

スイカとパスモ(電子貨幣つき乗車券)の発売停止のお知らせに、次のような文章があります。
「世界的な半導体不足の影響を受け、6 月8 日(木)より、無記名の「Suica」及び「PASMO」カードの発売を一時中止させていただいております。」
何か、おかしいと思いませんか。相手に不利益を与える場合に、「させていただきます」はおかしいでしょ。英語の案内では、そんな表現ではありません。

「あんたを殴らせてもらいます」は、新喜劇や漫才の世界です。そのように言われれば「いやです」と答えますよね。「取りやめさせていただきます

日本語教師が足りない

10月20日の日経新聞夕刊に「日本語教師が足りない 外国人留学生「6割増目標」に影」が載っていました。世界から日本に来てもらうためには、日本語教室は必須です。これまで、もっぱら欧米に行って文化を「輸入」をしてきて、外国から来てもらう文化の「輸出」には取り組んでこなかったからでしょう。

・・・新型コロナウイルス禍が収束し各所で人手が足りない状況が目立ってきた。外国人が日本語を学ぶ場に関しては教師不足が深刻さを増す。岸田文雄政権が掲げる「共生社会」の実現に向けて足かせとなる可能性がある・・・

・・・留学生らが日本語を学べる場は「日本語教育機関」と呼ばれる。文化庁によると、各地の大学やインターカルトのような日本語学校、地方自治体が独自に設けている教室などを含めて合計すれば全国に2700カ所超ある。
日本語を学ぶ人の数は直近2022年度の時点で21万9千人だった。あくまでコロナ禍からの回復途上の数字だ。19年度実績でみると27万人超いた。
教える人は慢性的に足りないといわれてきた。日本語教師の数はこの10年で3割増の4.4万人ほどに増えてきてはいる。
それでも生徒の数に比べれば伸び率は小さい。日本語学校や大学が東京や大阪など大都市部に集中しているため、地域間の偏りがあることが分かってきた・・・

・・・政府は教師の数や待遇を直接テコ入れするよりも「教育の質」を担保する施策に比重を置いてきた。
日本語教育機関認定法が5月に成立した。日本語教師を民間の資格から国家資格に格上げする方針を柱に据え「登録日本語教員」という資格の新設に動いた。
新たな制度は24年4月に始まる。基礎・応用の筆記試験の合格と実践研修(教育実習)の修了が付与の要件になる。国がお墨付きを与えた人と機関のみが原則教えることができる仕組みに変えた。
日本語教育の水準のばらつきを改善し、統一の基準を設けて質を底上げする。法整備の狙いに異論は少ない。
それでも現場からは人手不足を和らげる効果は見込みにくいとの声があがる。資格取得の負担の重さなどから現役教師の離職を招く懸念は残ったままだ。職種のハードルが上がったとの受け止めが広がり、なり手不足に拍車がかかる恐れもある。量と質の両面の模索はまだ続く・・・

企業の失敗、野性喪失から

10月8日の日経新聞、野中郁次郎一橋大名誉教授の「企業の失敗、野性喪失から」から。

バブル崩壊後の日本では雇用、設備、債務の3つの過剰が企業を苦しめたとされた。だが企業を本当に縛ったのは、全く異なる3つの「オーバー(過剰)」だったとみる。
――企業にとって「失われた30年」の真因はどこにあったのか。
「雇用や設備、債務もその通りだ。しかしより本質をいうならプラン(計画)、アナリシス(分析)、コンプライアンス(法令順守)の3つがオーバーだった」
「数値目標の重視も行きすぎると経営の活力を損なう。例えば多くの企業がPDCAを大切にしているというが、社会学者の佐藤郁哉氏は最近、『PdCa』になったといっている。Pの計画とCの評価ばかり偏重され、dの実行とaの改善に手が回らないということ。同感だ」
「行動が軽視され、本質をつかんでやりぬく『野性味』がそがれてしまった。野性味とは我々が生まれながらに持つ身体知だ。計画や評価が過剰になると劣化する」

――計画や数値目標なしに経営は成り立たないのでは。
「それらは現状維持の経営には役立つかもしれないが、改革はできない。欧米の科学的管理手法から発展したやり方は、感情などの人間的要素を排除しがちだ。計画や手順を優先させられると人は指示待ちになり、創意工夫をしなくなる」
「計画や手順が完璧であることが前提だけに、環境の変化や想定外の事態に直面すると、思考も停止する。高度成長期には躍動の原動力だったとしても、今では成長を阻害する要因だ」