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社会

ペットボトルキャップ運動

ある事業所で聞いた話です。
自動販売機を設置してあるのですが、利用者が飲み残しをペットボトル回収箱に入れてしまうことがあります。業者が回収する際に、液体が飛び散り周囲のものが汚れる被害が出るそうです。
解決策として、キャップを外してペットボトルを回収箱に入れてもらう方法を考えました。ペットボトル回収箱のほかに、キャップ回収箱を置くのです。
そして、認定NPO法人「世界の子どもにワクチンを日本委員会」の支援活動『ペットボトルキャップ運動』へ参加することにしたそうです。

利用者の協力が得られれば、効果的な方法ですね。うまいことを考える人がいるものです。

学校の制服

1月17日の読売新聞に「学校の制服 必要?」が載っていました。
・・・中学校や高校で服装について見直す動きが広がっています。従来は学校が指定する制服の着用が一般的でしたが、性的少数者(LGBT)への配慮や自主性を養うために服装の選択肢を増やしたケースもあります。進学を控えた季節、制服のメリットやデメリットを考えてみましょう。

〈A論〉身なり悩まず済む 連帯感や責任感も
茨城県立下妻第一高校(下妻市)は創立125周年を迎えた2022年4月、付属中学設立にあわせて制服を刷新しましたが、伝統の黒色は残し、男子向けの詰め襟も踏襲しました・・・
・・・大手制服メーカー「菅公学生服」(岡山市)が23年7月に全国の中高生1200人を対象に行った調査では、制服が「あった方がよい」との回答が「どちらかと言えば」も含めて84%に上りました。制服の良いと思う点(複数回答)は、「学生らしく見える」59%、「毎日の服装に悩まなくてよい」54%、「どこの学校か一目で分かる」39%、「服装による個人差がでなくてよい(平等である)」33%などの順でした。
同社企画開発部の吉川淳稔部長は「制服は連帯感や学校への帰属意識を生み、服装から家庭の収入格差を感じずに済むメリットもある。制服代は入学時には負担に感じるかもしれないが、3年間着られる耐久性を考えて、エコな服装として愛着をもって着てほしい」と呼びかけています・・・

〈B論〉私服で自主性育む 個性考える機会に
東京都立井草高校(練馬区)は、指定の制服がありません。服装は自由で毛染めやメイク、アクセサリーの着用も認めています。生徒会長の2年中西夏希さん(17)は「いつも好きな洋服を着られて、季節によっての温度調節も楽」と話します。
生徒が同校を進学先に選ぶ際、制服がないことが魅力となっています。私服での登校は少なくとも約50年前から認められていたようで、多くの地域住民に「井草らしさ」として受け入れられています。私服を認めることは、生徒の個性を尊重し、自ら考える自主性を育むメリットがあると考えられています。生徒会担当の中野健教諭(44)は「体育祭や文化祭など、教員が関わらなくても自主的に動く気質の生徒が多い」と胸を張ります・・・

都道府県立高校(全日制)のうち制服や標準服がない学校は、3007校のうち101校で約3%です。詳しくは、記事をお読みください。
私は、奈良女子大学附属高校の生徒会長時代に、制服(男子は詰め襟、女子はセーラー服)を廃止しました。それまでの制服は標準服として残しました。何人かは引き続き標準服を着ていましたが、ほとんどが私服を着るようになりました。家庭の貧富の差も指摘されましたが、友人が「制服の下に着ているものや腕時計で、制服でも差が出ている」と反論しました。自由化して、毎朝何を着ていくか困りました。そんなに服を持っていなかったからです。
大学生や社会人になると、いやおうなく服装を考えなければなりません。その訓練を受けていない若者は、大学時代はとんでもない服装をし、社会人になると「紺のスーツ」という制服を選ぶことになります。「夏服・クールビズ騒動

日本衰退の原因、教育

川北英隆・京都大学教授のブログに「高校と大学教育のあり方」(1月31日)が載っていました。

・・・一言で日本の教育制度の問題点を表現するのなら、詰め込み型教育の弊害に直面している。
詰め込むには過去の知識である。江戸時代以前は中国経由で伝わった知識、明治以降は西洋で生まれた知識である。これらに今、日本で生まれた知識が加わっている。
何が問題かといえば、これらの知識の詰め込みに脳みそが疲れてしまう。だから過去の知識を使って新しいものを生み出そうとの働きが弱くなる。典型的には中学、高校、大学と受験に追われた結果、何とか大学に入った瞬間に開放感に浸ってしまい、20歳前後の一番大切な時期に脳みその発達が停止してしまう・・・
・・・だから自分で考えない大人がたくさん輩出されてしまう。指示待ちであり、過去の踏襲へのこだわりである。だから日本からは新しいアイデアやビジネスが生まれにくい。新しいことを生もうにも、「そんなことは聞いたことがない」と否定される。

敗戦後、欧米に追いつけ、追い越せと頑張った時代には、真似だけで十分だった。何かを考える必要性に乏しかった。しかし欧米に追いついた瞬間、考えないことには伸びない。現実には日本政府や企業は考えなかった。だから1980年代後半以降、日本にバブルが生まれ、90年代に崩壊した。
そこから30年以上経ってみれば、経済規模ではアメリカの背中が遠くなり、中国に抜かれ、ドイツには抜き返され、インドの足音が近づいている。それだけではなく、日本から世界に誇れる産業が消失した。それに代わる新たな産業が育っていない。
教育として求められるのは知識の詰め込みではなく、考える力の要請である。今や知識はパソコンやスマホから得られる。AIが代替してくれる。いわば人間にとっての外部記憶装置や補助装置をいかに上手に使うのか、考えるための補助とするのか、その方法の訓練が教育の根幹にある・・・

続きもあります。お読みください。

佐伯啓思先生「SNSが崩した近代社会の大原則」

2024年12月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「SNSが壊したもの」から。いつもながら鋭い分析です。原文をお読みください。

・・・21世紀は情報社会であり、それを支えるものはデジタル技術である。この20~30年におよぶデジタル革命は、まちがいなくわれわれの生活を大きく変えてしまった。とりわけSNSが社会に与える影響は途方もなく大きく、様々な問題を生み出している・・・
(トランプ現象などを取り上げたあと)
・・・欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。
SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。

一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。その多くは、社会に対する憤懣、他者へのゆがんだ誹謗中傷、真偽など問わない情報の書き込み、炎上目当ての投稿などがはけ口になっている。SNSは万人に公開されているという意味で高度な「公共的空間」を構成しているにもかかわらず、そもそも「公共性」が成立する前提を最初から破壊しているのである。
今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。SNS情報の多くは、当初よりその真偽や客観性など問題としていないのである。「効果」だけが大事なのだ。これでは少なくとも民主的な政治がうまく機能するはずがないであろう・・・

・・・通常の財やサービスについては消費者は対価を支払う。それが市場の原則である。しかしSNSのような情報取引においては、消費者(使用者)は対価を支払わない。「いつでも、どこでも、誰とでもつながる無料のサービス」という奇妙なものが市場経済の中枢で無限に自己増殖してゆくのだ。
一方、プラットフォームの製作者や管理者は、大きなコストを必要とせずに広告収入で労せずして世界の支配者となってゆく。プラットフォームを使用するインフルエンサーはあちこちに自分の領地をもつ小ボスになる。そしてそれと連動するかのように、「既存のメディア」は力を失い、既存の民主政治は機能不全に陥ってゆく。
これは、高度な公共性をもつはずの情報・知識や通信ネットワークという「公共財(万人のインフラストラクチャー)」を、公的部門の管理にではなく、私的な市場競争に委ねた結果であった。

何かが間違っていたのだろうか。いやそうではあるまい。それはわれわれが、近代社会をとことん推し進めようとした結果ではなかろうか。
なぜなら、近代社会は、なんといっても個人の自由と幸福の追求に絶対的な価値を認めてきたからである。個人の活動の障害となる、既存の権力や伝統的権威、集団の規律、国境のような恣意的な線引きにはあくまで抵抗してきた。そしてそれが行きついた先が、グローバリズムであり情報革命である。ここでは個人の自由は最大限発揮される。
情報化にせよSNSにせよ、もとは権威主義的な政府に対抗する左翼リベラル派の戦略であった。しかし、皮肉なことに、情報ネットワークで世界を結ぶという計画を打ち出した民主党のクリントン大統領の情報革命が、その30年後には、トランプ氏の大統領返り咲きをもたらして民主党を窮地に追い込んだのである。
SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう・・・