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社会

平等社会の負の機能

戦後の民主主義がもたらした素晴らしいものの一つに、平等があります。
憲法による法的な平等の保障も重要ですが、暮らしを平等に近づけた経済発展の方が重要だったと私は考えています。いくら法の前では平等と言われても、貧富の差が大きかったり、就くべき職業が決まっていたりすると、実質的な平等は実現できません。
昭和後期の「一億総中流」は、大金持ちが貧乏になったというより、貧乏な人たちの所得が上がったのです。農村で貧しい暮らしをして古いしきたりに縛られていた人たちが、都会に出て勤め人になり所得も上がり、社会の拘束からも自由になりました。

ところが、平等社会という思想が、経済停滞とともに負の機能を発揮しています。
一つは、「「庶民感覚」が商売の足を引っ張る」で書いたことです。
発展している時期には、「あの人も金持ちになったんだから、私も頑張ろう」とか「あの家も子どもを大学に行かせたから、我が家も努力して行かせよう」と、成功した人をうらやましく思いつつ、自分も努力しようと考えました。
ところが経済が停滞すると、「どうせ私が努力しても、あの人のようになれない」と思う人もでてきます。そこに、あの記事に書いたように、「庶民感覚」なるものを基準に、成功した人をやっかむという暗い言論が出てきます。

各人の思いを遂げることができるようにするためには、自由な社会が必要です。そこでは、努力の差、持って生まれた能力の差、環境の違い、そして巡り合わせという運によって、成果の違いが出ます。100メートル競走、大学入試、会社での出世などなど。「結果の平等」は望むことができません。それをしたら、多くの人が不満を持つでしょう。
他方で、あまりの不平等は、社会に不満を生みます。必要なのは、出発点での一定の平等「機会の平等」です。

「芸人のクセに作家気取り」

日経新聞夕刊「人間発見」、「芸人・又吉直樹さんが語る「普通とは何か」表現手段としてのお笑い、文学」。4月27日の「「芸人が芥川賞」の偏見」から。

・・・受賞後「芸人のクセに作家気取りですよ」などとテレビ番組で発言されたことがあります。そうした偏見は驚きません。驚いたのは、一部の文学者の反応でした。
性別や年齢や国籍や職業などあらゆる事柄が平等であるべきだと言ってきたのが言論人です。ところが「芸人が小説を書いた」という面だけを切り取って語る文学者がいたのです。失望しました。それは「今の時代、差別はダメです」と形式的に言うのと同じです。差別はいつでもダメに決まっている・・・

「庶民感覚」が商売の足を引っ張る

ある人が高級料理を食べたりすると、「そんな高いものを食べて。庶民感覚とは違いますね」と批判する人がいます。先日、天然ウナギの鰻丼を食べた大臣に対して、「生活必需品が値上がりする中で、嫌みを言いたくなる」と発言した人がいました。大臣はたぶん自費で払っているのですから、鰻丼を食べても問題ないでしょう。大臣でなくても、多くの人が鰻丼を食べているでしょう。財布の事情に応じて。だから高い鰻丼も売れるのです。

世界第3位(かつては第2位)の日本で、「そんな高い料理」「庶民感覚とズレている」という発言は、いささか変です。貧しい人から見ると、「そんな高い料理」は手が届かないでしょう。他方で、それを求めている人もいて、それを提供している店もあります。
日本料理やホテルなどは、世界の金持ちからすると、とても安いようです。「安い方が良い」という発想はもっともなことですが、その行き過ぎがこの30年間の給料が上がらない経済を生みました。
「国民が安い物を求める」→「売り上げが伸びない」→「店の従業員の給料が上がらない」→「その従業員が安い物を探す」→(負の連鎖)。そして、会社は安い給料の非正規職員を雇います。彼ら彼女らは給料が安いので、安い店を探します。

自由主義経済では、ある程度の貧富の差は生まれます。もちろん極端な差は、社会を分断し、不安定にするでしょうが。努力して金を儲けた人が、高価な物やサービスを求めることは自然であり、それが経済を発展させます。
「そんな高いものを食べて、庶民感覚とは違いますね」は事実としても、努力して成功した人が儲けた金で高いものを食べることを批判するのは、おかしいと思いませんか。提供しているお店も、悪いことをしているのではなく、必要な経費にもうけを乗せて売っているのです。
努力した人の足を引っ張るのではなく、ほかの人もそのように努力しようと考えて欲しいです。「庶民感覚」は、くせ者です。

増える中途採用、4割近くに

4月20日の日経新聞1面は「中途採用比率、最高37% 今年度、7年で2倍に」でした。新卒一括採用、転職しにくいという日本型雇用慣行が、変わりつつあります。

・・・日本経済新聞社が19日まとめた採用計画調査(最終集計)で、2023年度の採用計画に占める中途採用の比率は過去最高の37.6%となり、16年度から7年で2倍に上昇した。中途採用計画人数は22年度実績比24.2%増で、増加率は過去最高だ。日本の標準だった新卒主体の採用慣行は、生産年齢人口の減少を背景に限界が近づいている。
主要企業5097社に採用計画を聞き、4月4日までに未確定とした企業も含め2308社を集計した。新型コロナウイルス禍の収束に伴い流通・サービス業など現場・対面の業務が多い企業の積極姿勢が目立つ。ただ、人手不足の深刻化による奪い合いは激しくなっており、計画の人数を確保できるかは不透明だ・・・

『縛られる日本人』2

縛られる日本人」の続きです。本の6ページと21ページに、次のような日本人の発言が紹介されています。
「日本は、人間ファーストではなく、労働ファーストです」

これは正鵠を得ています。
貧しい時代は働かないと食べていけないので、多くの日本人は、百姓として朝から晩まで働きました。会社勤めになっても、その勤勉さを持ち込みました。勤勉は、日本人の美徳です。

これがおかしくなったのは、バブル期から平成時代です。「24時間戦えますか」と栄養ドリンクの宣伝が流行ったのは1989年でした(もっとも同時期に「5時から男」も流行っていました)。経済成長期の象徴である「サザエさん」では、波平さんもマスオさんも家で晩ご飯を食べています(時々、駅前で飲んでいますが)。

長時間労働は、霞が関の官僚の代名詞でした。それはまた、一部のエリートの「自己満足」でもありました(私もそうでした。が、年がら年中長時間残業をしていたのではありません。そうでない時期もある「季節労働者」でした)。「エリートなんだから仕方ない」と、本人も家族も社会もそう考えていたのです。
ところが、その長時間労働が、従業員一般に広まったのです。従業員は、勤勉さを会社に対して主張させられたのです。美徳どころか、家庭や私生活を犠牲にするという、変なことがまかり通るようになったのです。これは「男社会」でしかできないことであり、家族を泣かせていたのです。経営者たちが、それを変だと思わなかったことに、問題があります。
もちろん、これは都会の会社などに当てはまる事象であって、地方で家庭と仕事を両立させている人もたくさんいます。

私は官民を問わずエリートは存在し、その人たちは時に長時間労働が避けられないと考えています。しかし、それを従業員一般に求めることは間違いです。またエリートが残業するのは、意味がある目的のために行うべきで、無駄な仕事で残業するのはやめましょう。