「社会」カテゴリーアーカイブ

社会

氷河期世代の現状

6月3日の日経新聞経済教室「氷河期世代はいま」、玄田有史・東大教授の「雇用は改善 賃金なお低く」から。

・・・日本企業は長年にわたり職場内部での時間をかけた入念な人材育成を重視してきた。併せて学校と連携し、潜在成長力のある新卒採用を重視する雇用慣行を作りあげた。企業の優れた人材育成力は、高度経済成長期以降の日本の国際競争力の源泉となり、新卒採用の正社員(主に男性)には安定した長期雇用と年功賃金の恩恵がもたらされた。
半面その慣行は、学校卒業直後に正社員として採用されなかった若者にとって企業内での育成と成長、ひいては長期雇用や年功賃金のチャンスを失うことを意味する。1990年代半ばから2000年代前半の深刻な不況期に学校を卒業し就職難を経験した就職氷河期世代とは、日本的雇用システムから多くの若者が排除された世代だった。

卒業後に非正規雇用で生活する「フリーター」や、就職をあきらめて社会から距離を置く「ニート」「ひきこもり」は、就職氷河期世代の若者を象徴する一般用語となった。
2010年代後半以降、就職氷河期世代の多くが40歳代にさしかかり、親世代も引退して無職の70歳代になる。世帯が孤立して共倒れ状態に陥る「7040問題」も懸念された。そこで安倍晋三内閣は20年度から3年間、就職氷河期世代支援プログラムの実施を決定する。政府は30万人の正社員数の純増を目標に、大規模な施策を展開した。
支援プログラムは、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあって2年延長され24年度まで実施された。5年間の取り組みを通じ、就職氷河期世代のうち不本意ながら非正規として働く人々は11万人減少し、正規雇用と役員はあわせて31万人増加した。人手不足の追い風も受け、氷河期世代の支援策は一定の成果をあげてきたといえる。

雇用者に占める正社員の割合や、人口に占める就業者の割合にも、若年期に比べて中年期になると変化がみられる。40歳代の正社員率や就業率は、氷河期世代では前の世代と比べても男性でほぼ匹敵する水準になり、女性ではむしろ上回る状態が確認できる(総務省統計局「労働力調査」)。
氷河期世代にフリーターやニートが高い割合で含まれるという言説は、若年期には確かにあてはまっていたが、中年期になるともはや事実とかけ離れている。
次第に雇用状況が改善したのは、何より氷河期世代の個々人の努力があった。2000年代から本格化した政府の若年雇用対策も一定の貢献を果たした。仕事と子育ての両立支援策は、女性の就業継続を後押しした。就職支援ビジネスの拡大など、正社員向けの転職市場が急速に整備されてきたことも大きかった。
今や雇用の安定度からすれば、就職氷河期世代は特別な弱者とはいえない状況にある。しかし就職氷河期世代と直後の世代にとって雇用安定とは別に、低賃金という深刻な問題が依然として影を落としている・・・

6月4日の、堀有喜衣・労働政策研究・研修機構統括研究員の「氷河期世代のキャリア、不安定な「ヨーヨー型」多く」も合わせて読んでください。

過労死、東アジアで深刻

5月25日の朝日新聞に、脇田滋・龍谷大名誉教授の「過労死、なぜ東アジアで深刻?」が載っていました。

・・・長時間労働や職場のストレスから命を落としたと認定されるケースが後を絶ちません。日本で長く問題になっている「過労死」は、英語の辞書でも「karoshi」と紹介されています。ただ、働き過ぎによる健康被害は日本だけの問題ではないようです。世界の労働問題に詳しい龍谷大の脇田滋名誉教授に聞きました。

――過労死はいつごろから問題となってきたのですか。
バブル経済へと向かう1970~80年代です。労災問題に取り組む医師たちが「過労死」と名付けたのが始まりです。
危機感をもった弁護士たちが連絡会を結成し、88年には全国初の「過労死110番」が実施され、海外でも「karoshi」と報道されました。

――過労死は日本だけの問題なのでしょうか。
そうではありません。世界保健機関などの調査によると、16年に長時間労働で死亡したとされる人は74万5千人に上り、00年から29%増加しました。韓国や中国といった東アジアではいずれも深刻で、儒教的な価値観も影響しているのではないかと考えます。

――どういうことでしょう。
勤勉さや組織への従順さが美徳とされ、厳しい競争社会であることが、長時間労働を助長する土壌になっています。
イタリアでは「有給休暇を放棄してはならない」と憲法に明記されています。ヨーロッパではバカンスを取るために働くという発想が強く、過労死を理解してもらうのに苦労しました・・・

より良い死を

5月18日の読売新聞「あすへの考」は、猪熊律子・編集委員の「多死社会 「最期の質」高めたい」でした。いずれ誰もが直面する問題です。詳しくは記事をお読みください。

・・・高齢化の進展で2040年の年間死亡者数は160万人超と、かつて経験したことのない多死社会の到来が見込まれている。たとえ意識を失っても、判断・認知能力が衰えても、尊厳ある最期、苦痛のない最期を迎える準備を私たちはできているのだろうか。より良い死への過程を意味するQOD(Quality of Death/Dying、直訳は死の質)を高める医療のあり方を考える・・・

・・・こんなはずではなかった――。 その代表例が、人工呼吸器装着の選択を急に迫られ、つけた後も回復が見込めないケースだろう。
つけても望んだ治療効果が得られなければ、患者は管や、管を抜かないための抑制帯などにつながれ、苦しい思いをする。一方、一度つけたら外せないからと人工呼吸器をつけなければ、救命の可能性を奪う危険性がある。「つける・つけない」の二者択一に患者、家族も医療者も悩む中、今、注目されているのがTLT(Time‐Limited Trial)と呼ばれる期限付きの治療の方法だ。
まずは治療を始め、患者が望む状態まで回復することが困難だと明らかになった段階で治療を終了し、緩和ケアに移行する。米国で普及しており、日本でも実践する病院が現れ始めた。東京ベイ・浦安市川医療センター(千葉県浦安市)はその代表格だ。
気管切開や人工栄養で不本意な最期を遂げた患者らがいた教訓から、患者の意思決定を最優先に据え、延命治療をやめることができるマニュアルを16年に作成した。参考にしたのが、厚生労働省が07年に出した指針だ。医師が人工呼吸器を外し、患者が亡くなった事件が起きたのを機に、終末期医療への考え方を国が示した。積極的安楽死は対象外とした上で延命治療の終了も事実上認めた。ただし指針は法律ではないため、医師が殺人罪などで訴えられる可能性が少しでもある限り、治療の終了に慎重な医療機関も少なくない・・・

・・・QODの観点からTLTとともに注目されるのが「緩和ケア」だ。
帝京大医学部の伊藤香准教授は約20年前、米国で救急・集中治療に携わった際、ICU(集中治療室)に緩和ケア医が現れて驚いた経験を持つ。早い段階からの緩和ケアの介入は患者の望みをかなえやすくし、QODを高めることにもつながる。反対に、死と常に隣り合わせの救急・集中治療現場で鎮痛、鎮静など症状緩和の医療がなければ患者は苦痛の中に放り出され、治療の終了も難しくなる。
「日本で緩和ケアというと、がん末期の患者さん対象のイメージが強いが、本来、緩和ケアはどの患者も選択できるべきだ。高齢化が進み、必ずしも積極的な治療を望む人ばかりでない日本の現状を思うと、緩和ケアも含めた治療の提案が重要性を増す」と伊藤さんは言う。日本救急医学会などは終末期医療の新しい指針の公表を夏に予定する。指針の策定委員長も務める伊藤さんは「緩和ケアやTLTの有用性を盛り込む方向で検討が進んでいる」と語る・・・

・・・では、個々のQODを高めるためにはどんなことが必要か。
緩和ケアは診療科横断的に捉え、診療報酬を柔軟に見直すとともに、対応できる人材を育てていくことが必要だ。患者に寄り添う医療の実現や、病院でなく在宅で亡くなる人も増える中、困った時に気軽に相談できる地域の医療体制の構築が欠かせない。
一方、患者の側も「お任せ医療」から脱却し、死の過程を学び、自らの希望を周囲と共有する努力が求められる。日本尊厳死協会が運営するウェブサイト「小さな灯台プロジェクト」には、遺族から寄せられた会員の最期の様子が掲載されている。長く門外不出だったが「一足先に医療の厳しい選択を迫られた人たちの体験談は、これから逝く人にとって『灯台』の役割を果たせるはず」と21年から公開した。人工呼吸器に関する解説サイトもあり、参考になる・・・

目に見えない宗教、静かに浸透

5月14日の朝日新聞夕刊「いま「宗教」は」「「目に見えない宗教」、静かに浸透 東大教授・堀江宗正さんに聞く」から。
・・・多くの人が「無宗教」を自認し、宗教を社会の周縁に置いてきた――。それが日本社会の姿だと東京大学教授の堀江宗正さん(宗教学)は指摘する。一方で、オウム真理教による一連の事件以後、既存の宗教は存在感を低下させ、代わって「目に見えない宗教」が静かに社会に浸透しているという。話を聞いた・・・

・・・そもそも「宗教」は、西洋のreligionを訳す形で明治期に使われるようになった新しい概念です。普通の日本人には馴染(なじ)みがありません。そのため、生活に密着している「神道行事/葬式仏教/民間信仰」は、教団をもった「宗教」から区別されるのが普通です。宗教学的には、神・仏・霊などを前提とするので「宗教」とされます。しかし、多くの人は、初詣や冠婚葬祭に関わっていても、自分たちは「無宗教」だと考えます。
一方、明治憲法は「安寧秩序を妨げ」ない限りで信教の自由を認めました。現行の宗教法人法は、教義・儀式・信者が明確な団体を宗教法人とします。今日では、多くの人が「宗教」と言えば教団宗教であり、安寧や秩序を妨げる危険なものだとイメージします・・・それに対して、先にあげた「非宗教」(宗教とされないけれど宗教学的には「無宗教」ではないもの)は、大事なものとして実践されています。

オウム以降は、教団宗教と無関係に、心霊、癒やし、パワースポット、占い、瞑想、魔術への関心を持つ人が増えてゆきます。宗教学者は、これらの動向をスピリチュアリティ(霊性)と総称しました。教団に着目するだけでは見落としてしまう「見えない宗教」でした。その多くは、民間信仰だけでなく神道や仏教の一部の実践とつながっています。
2000年代には、スピリチュアル・カウンセラーと称する江原啓之氏のテレビ番組が人気を博します。オーラや前世や守護霊などを信じる「スピリチュアル・ブーム」も起きました。
その背景には、孤立や個人化が進展し、「イエ」への帰属意識が希薄になるという変化があります。それは教団を嫌い、家族と距離を取ることとつながります。この時期には先祖供養を重視する教団の信者が減少します。それに対して、自分の苦しみの原因はイエの「先祖」より個人の「前世」にあるという輪廻(りんね)観がスピリチュアリティでは目立ちます・・・

・・・いつの時代にも、人は信じる拠(よ)り所を欲しがります。日本近代史は「信じたのに裏切られた」ことの連続かもしれません。信じる心と疑う心が同居するような心のあり方を、私たちは学ばなければならないのかもしれません・・・

英語が日本共通語に?2

英語が日本共通語に?」の続きです。
私は、言葉は簡単に変わらない(私自身がずっと関西弁です)と考えていたのですが、考えを変えました。その理由は三つあります。

1つ目は、現実の体験です。
最近のテレビニュースを見ていると、沖縄の人も鹿児島の人も、ほとんど東京共通語を話しています。40年前に私が鹿児島に勤務したときは、言葉が通じなくて苦労しました。単語、アクセント、イントネーションが異なるからです。県教育長に「どれくらい練習したら、かごっま弁が身につきますか」と尋ねたら、「岡本さん、あきらめなさい。高校生までに鹿児島で育たないと、無理です」と教えてくださいました。
戦前から政府は、学校教育で方言をやめさせようと努力したのですが、なかなか変わりませんでした。それが、テレビなどの普及で、若者から言葉が急速に変わったのです(すると、関西弁は、いつまで生き残るでしょうか)。
禁止しても変わりませんが、憧れがあると変わります。5月19日の日経新聞が「方言、30年後ねぐなるんだが? 沖縄や北海道の8地域「消滅危機」」を書いていました。

NHKの朝ドラ2001年度前期は「ちゅらさん」でした。「おばぁ」が、東京人でもわかる程度の沖縄弁を話していました。2022年度前期の「ちむどんどん」になると、仲間由紀恵さんも、ほとんど東京共通語を話していました(私の偏見です)。

2つ目は、国際化が進み、英語が必須になりつつあるからです。小学校から英語を教え、大学生になれば日常会話や読書ができることが期待されています。京都のタクシー運転手や和風旅館の従業員も、英語を話しています。インテリだけでなく、普通の職場で英語が広がっているのです。

そして3つ目が、日本人の英語への憧れです。先に書いたように、新しい会社名や新製品名は、英語または英語もどきが多いです。紙の手提げ袋に印刷されている文字も英語。若者が来ているシャツに印刷されている文字は、日本語は見かけず(着ているとしたら外国人)英語です。野球やサッカー選手の胸に書かれている球団名も、ほぼ英語です。自動車の車名も、アルファベット。
ことほどさように、日本人は英語に憧れています。すると、方言から東京共通語に変わりつつあるように、英語に切り替わるのも早いのではないでしょうか。もちろん「文法が違う」との反対論が出るでしょうが。文法は学校で教えています。

これを考えれば、3世代あれば、日本語は英語に取って代わられるのではないでしょうか。私は、望んではいないのですが。100年後を見てみたいです。