12月19日の朝日新聞オピニオン欄、長谷川貴彦・北海道大学教授の「サッチャー改革という物語」から。詳しくは原文をお読みください。現在連載「公共を創る」で「新自由主義的改革の代償」を書いています。成熟社会において新自由主義的改革だけでは社会は良くならないことを述べているのですが、その主張に通じるところがあります。サッチャー首相については、池本大輔著「サッチャー-「鉄の女」の実像」(2025年10月、中公新書)が出ました。これも読んだのですが、紹介は別の機会にします。
・・・高市早苗首相が「憧れの人」と公言し、再び注目された英国のマーガレット・サッチャー元首相。サッチャー氏による新自由主義改革が、戦後の福祉国家がもたらした「衰退」を打開した――。そう語られてきた「常識」の見直しが進んでいる。その背景と今日への示唆とは。歴史学者の長谷川貴彦さんに聞いた・・・
――戦後英国史の「常識」が見直されているそうですね。
「まずその『常識』について確認しましょう。第2次世界大戦後、英国では労働党政権によって福祉国家が確立され、国民は『ゆりかごから墓場まで』と称された社会保障を享受した。しかし1970年代に入ると、それが経済的な非効率や硬直性をもたらし、深刻な衰退を招いた。袋小路に陥った英国に登場し、危機から救ったのが、79年就任のサッチャー首相による新自由主義改革だった――。そうした『成功物語』です」
「今でも繰り返し語られる物語で、多くの人の頭に染み込んでいるのではないでしょうか」
――それが、近年どのように見直されているのですか。
「2008年のリーマン・ショック、16年のブレグジット(英国の欧州連合離脱)と米大統領選の衝撃を経て、17年にロンドンで開かれた研究集会『英国のネオリベラリズム再考』以降に、再検討が進みました」
「『常識』は、二つの物語から構成されています。一つ目が、戦後の社会民主主義、福祉国家、ケインズ主義は『失敗』であり、その結果、『衰退』がもたらされたという認識です」
「二つ目は、新自由主義の政策的な『成功』という物語です。サッチャー政権は個人の自由を基礎に、国有企業の民営化や労働組合への規制強化、金融市場の自由化などを断行し、それにより英国は景気循環から解放され、持続的な経済成長を成し遂げたというものです」
――まず「衰退」の物語は?
「当時の政治家やジャーナリズムは『衰退』の物語を強調しましたが、経済は70年代にかけて成長していた。生活水準も向上しており、歴史家ジム・トムリンソンは、むしろこの時代を、経済成長を遂げた黄金時代の一部と捉えています」
「さらにトムリンソンは、英国が経験していたのは『衰退』ではなく、『脱産業化』であるとも言っています。経済の構造変化を捉える重要な視点です」
――脱産業化とは。
「英国は19世紀に世界で最も早く工業化を達成し、20世紀後半には他国に先駆けて脱工業化の道を歩み始めました。70年代に本格化するこの現象では、従来の基幹産業だった鉄鋼業や造船業などが競争力を失って製造業の拠点が海外に移り、経済の主軸が金融サービスなどの第3次産業へと移りました」
「これにより、基幹産業で働いていた労働者たちが、職を失ったり、より賃金の低いサービス業に移らざるを得なくなったりした。人々の皮膚感覚としても、『衰退』として認識されやすかったでしょう」
「だが、これは後に多くの先進国も体験する構造転換だった。なのにそれを労働組合の存在や公共部門の拡大が招いた『衰退』とするのは、福祉国家の『失敗』を強調したい人々によるイデオロギー的な虚構であり、それが実態を見る際の阻害要因になってきた、と指摘されるようになりました」
――「衰退」の部分が再検討されれば、おのずと「新自由主義」の見方も変わりそうです。
「その通りです。事実、新自由主義の『成功物語』も再検討されています。新自由主義の英国版がサッチャリズムですが、その改革は、実は戦後の福祉国家が築いたストックや遺産を前提として成立したという評価が有力です」
「例えば、サッチャー政権は『資産を所有することで、個人の自立を促し社会を安定化させる』との考えで、公営住宅の個人への売却を進めましたが、公営住宅を大量に建設したのは福祉国家の時代でした。脱産業化で膨れあがった失業者を支えたセーフティーネットも、福祉国家時代の政策によるものでした」
「つまり、前の時代に蓄積された社会インフラや制度のストックがなければ、サッチャリズムの『改革』による生活への打撃はより深刻なものになっていたでしょう。この観点からすれば、新自由主義の『成功』は、福祉国家の遺産に寄生していたことになり、その持続可能性に疑問符がつけられています」