6月27日の読売新聞夕刊、井上寿一・学習院大学教授の「昭和史の「なぜ」考えて学んで」から。詳しくは記事をお読みください。
「記憶が風化 戦争抑止力が弱くならないか × 悲惨な記憶継承だけで戦争回避 楽観にすぎる」
戦前・戦中の日本政治外交史を研究する政治学者、井上寿一さん(68)は「昭和を知ると〈いま〉がわかる」と語る。その昭和の戦争体験を語る生存者が少なくなっている。戦争への道に進んだ歴史からどう学んだらよいのだろうか。
――記憶が風化し、戦争への抑止力が弱くならないか、心配です。
井上 悲惨な戦争の記憶を継承しさえすれば戦争を回避できるかといえば、それは楽観にすぎます。
歴史上初めての総力戦となった第1次大戦を終え、ヨーロッパの人びとは「二度と戦争は嫌だ」と思った。それなのに、戦争の記憶が生々しかった20年後、もう一回大戦争をやったじゃないですか。
――確かにそうですね。
井上 第2次大戦の直接のきっかけは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻(1939年)です。あの時、「戦争はいけない」「ヒトラーに降伏しよう」と侵略されたポーランドの人々に言えたでしょうか。それでは侵略に加担することになります。
戦争の全体像は多面的で複雑です。照明の当て方によって、戦争像は異なります。戦争は被害の過酷さだけでは語りきれません。
――確かに日本人の戦死者は44年以降の戦争後期に集中し、45年3月の東京大空襲からは民間人の犠牲者が急増する。敗色が濃くなっても「一撃講和」にこだわったことが一因とされています。
井上 どこかで一度、戦果を上げ、有利な条件で終戦交渉に臨もうとする考えが「一撃講和」論です。ところが「一撃」の機会は訪れず、その結果、全国各地に空襲が広がり、沖縄戦では民間人も多く犠牲になり、8月には広島・長崎に原爆が投下されました。
――一撃のために戦場に散った特攻隊員も数多い。そして、終戦の遅れはソ連軍の侵攻も招き、大きな被害が出ました。
井上 いたずらに戦争を続けた原因の一つは、戦争目的が不明確だったことです。そもそも37年7月7日に起きた偶発的な軍事衝突は、4日後に現地で停戦協定が結ばれたのに、気が付いたら全面戦争に拡大していました。陸軍の仮想敵国はソ連、海軍の仮想敵国はアメリカなのに、なぜ中国と戦争するのか? その理由もあいまいで、戦争目的は変遷しました。
最初は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」。荒れ狂う支那(中国)を懲らしめるためでした。それが途中からは「東亜新秩序の建設」となり、米英との戦争が始まると「大東亜共栄圏の建設」「アジアの解放」と言い出す。