カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

電車内の押しくらまんじゅう

みんながするから、みんながしないから2」の続きになります。実は、この話を書こうと思って前回の記事を書いたのですが、本論を忘れていました。

朝の地下鉄丸ノ内線、7時過ぎなので、座ることはできませんが満員ではありません。私は、すいている中程まで進みます。車内放送も、そのように指示しています。
ところが、次々乗ってくる人たちが、扉の近くに固まります。そして、スマートフォンの操作に熱中します。その状態は、押しくらまんじゅうです。冷房が効いているとはいえ、この暑い夏に体を寄せ合っています。中に入れば空いているのに。
しかも、多くの人がマスクをしています。「あんた、コロナ怖いのかい。なのに、押しくらまんじゅうしているのは、矛盾してるわ」と言いたくなります。
不思議な人たちです。この人たちは職場でも、周囲が見えず、気配りができない人なのでしょうか。職場だったら、評価は下がりますよね。

私が四ツ谷駅で降りようと「降ります。通してください」と声をかけると、面倒くさそうな目で見て、体をよじるだけの人がいます。お兄さん、それでは通れないのですよ。通路を開けてください。
この話、何度も同じことを書いています。「継続は力なり」という言葉もあります。

みんながするから、みんながしないから2

みんながするから、みんながしないから」の続きです。

高校時代に、サッカーを少しかじりました。そこで「百姓一揆」という言葉を覚えました。下手なチームだと、ボールが飛ぶと、敵味方の選手が(ゴールキーパーを除いて)そこに集まるのです。みんなが集まる状態を指して、百姓一揆と呼ぶのです。押しくらまんじゅう状態になります。えさを投げると集まってくる、池の鯉と同じです。

戦術としては、空いている場所に展開し、そこでボールをもらう方がよいのです。みんなが同じことをしていては、いけません。ボールを持った選手からボールをもらうために、(パスが出るところに)近寄る選手も必要ですが、それは数人に任せておいて、誰もいない場所に走って、次のパスをもらうのです。

ボールを持った選手は、意識と視野が足もとに集中し、全体の状況を把握できません。「後ろの声は天の声」という金言もありました。後方の選手が全体を見渡し、ボールを持った選手に指示を出すのです。

みんながするから、みんながしないから

「みんなが持っているから」というのは、こどもが、欲しいものをねだるときの決めぜりふです。よくよく聞くと、友達2~3人が持っているだけだったり。
服装や化粧品の宣伝で「あなたの個性を際立たせましょう。今年の流行は・・・です」という、矛盾したものもありました。企業が宣伝する流行に合わせれば、個性は埋没します。最近、電車の中で若い女性を見ていると、皆さん同じような化粧をしていて、区別がつきません。

周囲に会わせておけば無難で、自分で考える必要もありません。みんなと違ったことをすると、冷たい目で見られたりいじめに遭うこともあります。しかし、かつて「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というお笑いのネタもありました。自分の頭で考えず、みんなに従っていると、痛い目に遭うこともあります。

商売も同じでしょう。「みんながやっているから、私も始める。」そこそこうまくいくかもしれませんが、ある段階で、パイの奪い合いになります。みんながやっていないことに挑戦すると、うまくいかないこともありますが、大成功することもあります。
科学者も、みんなと同じことをしていては、大きな発見はないでしょう。

西洋社会を学ぶ意味

岩波書店の宣伝誌『図書』6月号に、前田健太郎・東大教授が「西洋社会を学ぶ意味」を書いておられます。ウエッブで読むことができます。一部を抜粋します。

・・・日本の政治学において、西洋由来の理論が持つ存在感は大きい・・・政治学の教科書に掲載されているのも、大部分は欧米の研究者の提唱した学説である。マルクス主義、多元主義、合理的選択理論、ジェンダー論など様々な理論が輸入されては、日本の政治の分析に用いられてきた。
それを、奇妙に感じる人もいるだろう。日本列島から何千キロも離れ、歴史や文化も異なる土地で作られた理論を、なぜ自国の政治に当てはめるのか。それは、世界を西洋とそれ以外に二分し、前者の後者に対する優位を唱える西洋中心主義の発想ではないか、と。こうした批判は、より日本に根ざした政治学を目指す動きへとつながる。
だが、そこには悩ましい問題が待ち受けている。現代の日本において、欧米の政治学の影響を受けていない理論など、ほぼ存在しない・・・

・・・欧米の社会科学は、西洋社会を分析の対象としている。このことは、日本の政治学のあり方を考える上で、無視できない意味を持つ。というのも、その視点を素直に取り入れるのであれば、欧米の政治学の理論を用いて日本の政治を分析する発想にはなるまい。むしろ、まず日本列島を取り巻く東アジアという地域の成り立ちを考え、その中での日本の位置づけを探ることになるだろう。
ところが、ここで重要な問題に気づく。それは、日本の政治学における東アジアへの関心の低さである・・・キリスト教や啓蒙思想は登場しても仏教や儒教は登場せず、近代官僚制は解説されても科挙制度は解説されず、ウェストファリア体制が出てきても冊封体制は出てこないのが一般的である。
これは不思議なことではないだろうか。七世紀に律令制を取り入れて以来、日本列島の支配者たちは、中国大陸や朝鮮半島に興った政治権力との間で様々な関係を取り結び、その下で政治制度を作り上げてきた。政治学の教科書の中で、この基本的な事実に言及がないというのは、あたかも絶対王政や身分制議会に触れることなく欧米諸国における政治制度の成立を説明するようなものだろう。

西洋の学問を学び、自国の分析に取り入れることは、一見すると開明的であり、先進的である。だが、日本には一九世紀後半の「脱亜入欧」の時代以来、自国を西洋の一部に含め、東アジアに背を向けるという、一風変わった自国中心主義があった。欧米の政治学を自国に当てはめつつ、東アジアを視野の外に置くという態度は、それとよく似ている。
かつては、それを方法論的に正当化することも可能であった。日本は、社会経済的な条件や政治制度が周辺諸国とは大きく異なっていたからである。例えば、一九八〇年代までの東アジアでは、複数の政党が自由に競争する政治体制は日本以外に存在せず、産業化の程度にも大きな差があった。そうであれば、欧米諸国の方が日本との共通点が多く、比較しやすいという議論も成り立ち得ただろう。
だが、木宮正史『日韓関係史』(岩波新書、二〇二一年)が韓国の事例に関して指摘するように、「失われた三〇年」とも呼ばれる日本の経済的な停滞が続く中で、従来の前提条件は大きく変容した。台湾と韓国は一九九〇年代にかけて民主化を成し遂げ、今や経済発展の水準も日本と同等である。他方で、独裁体制が続く中国でも急速な経済発展が進み、少子高齢化など日本と似た社会問題を抱えている。その意味で、未だに経済発展の水準の低い北朝鮮は例外としても、東アジア諸国を日本の比較対象から除外することはもはや正当化しにくい。むしろ、今や改めて日本を東アジアの国として位置づける条件が整ったともいえよう・・・

明治以来、日本は「脱亜入欧」を目指してきました。当初はそれでよかったのでしょうが。その結果、大きな間違いを犯しました。一つは、アジアで戦争をしたこと、植民地を持ったことです。もう一つは、アジアに「友達」を作ることができませんでした。アジア各国が貧しく、日本だけが豊かな時代は、それらが「隠れていた」(相手の国は意識していました)のですが、各国が経済力をつけたことで、その問題があからさまになりました。

「哲学はこんなふうに」

アンドレ・コント=スポンヴィル著『哲学はこんなふうに』(2022年、河出文庫)を読みました。
哲学とは何か。若いときから関心はあったのですが、簡単に書いたものはありません。本屋に並んでいるのは、西欧哲学史や、哲学者・思想家の歴史です(その点では、政治思想、経済学、社会学も西欧の学者の歴史を並べて紹介するだけで、学問として成り立っていました)。

それに対し、この本は、次のような12の項目について解説したものです。
道徳、政治、愛、死、認識、自由、神、無神論、芸術、時間、人間、叡智。

なるほど、西洋の哲学は、このような項目を論じるのですね。神と無神論が入っているのは、キリスト教の影響でしょう。
私は、哲学は人生の意味、よく生きるとは何かを考えることだと思っています。その点からは、これらの項目は納得するとともに、やや物足りない点もあります。

哲学は「高尚なもの」とか「近づきにくいもの」という印象があるものの、よくわかりません。学者には、簡単なことを難しく書く人たちもいます。難しいことを簡単に説明することが重要なのに。自分の言葉にするのが、難しいのでしょうね。
でも、学問も一つの商売と考えれば、その考え・著作が売れないと成り立ちません。消費者(読者)を獲得するためには、わかりやすくする必要があると思うのですが。象牙の塔にこもって内輪だけで理解し、世間には「難しいぞ」という印象を売ったのでしょうか。
この本は文章もわかりやすく、翻訳も読みやすく、理解しやすかったです。