「私の読んだ本」カテゴリーアーカイブ

「私の読んだ本」という表題ですが、いま書いているのは蔵書の整理です。本の内容については、手が及んでいません。

(蔵書の引っ越し)
2006年春に、実家から蔵書を引き取りました。その顛末記です。なお、進行中。

読書家・購書家・蔵書家

10月21日の日経新聞読書欄、若松英輔さんの「読書家・購書家・蔵書家〜井筒俊彦とボルヘス」から。その気持ち、よくわかります。

・・・購書家という言葉は辞書にはないかもしれないが、本の世界にはこう呼ばずにはいられない人物はいる。本を読むのも好きだが、それを購うことに情熱を燃やす人たちである。アルゼンチンの作家ボルヘスもそうした人間の一人だった。七十歳になろうとする彼がアメリカのハーヴァード大学で行った連続講義が『詩という仕事について』と題する本にまとめられている。そこで彼は、自宅にある多くの本をながめているとすべてを読むことなく死を迎えるだろう、と感じつつも「それでも私は、新しい本を買うという誘惑に勝てません」と語り、こう続けている。

〈本屋に入って、趣味の一つ――例えば、古英語もしくは古代スカンジナビア語の詩――に関わりのある本を見つけると、私は自分に言い聞かせます。「残念! あの本を買うわけにはいかんぞ。すでに一冊、家にあるからな」。〉

家に同じ本があるのにさらに買いたいなど理解できない、という人がいても驚かないが、同じ本を持っていても何かの縁で目の前に現われた本の横を簡単に通り過ぎることなどできない、という心情もまた、購書家たちの真実なのである・・・

『中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事』

中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事』(2023年、角川ソフィア文庫)を本屋で見かけて、買いました。「このような内容の本を読んだことがあるなあ」と思い、目次を見て、ぱらぱらと目を通しました。「読んでなかったか。じゃあ買おう」と決断。

読み始めると、記憶が戻ってきました。「やはり読んだはずだ」。で、このホームページで検索してみると、出てきました。「100年かけてやる仕事
内容のほとんどは忘れていました。まあ、「2度読んだのだ」と思えばよいのですよね。

このような本は、私の分類では、「貯蓄の読書」か「消費の読書」に当たります。よしとしましょう。「生産の読書、消費の読書、貯蓄の読書

古書のうち半分は値段がつかない

6月24日の読売新聞夕刊に「売れない古書 ノートに再生」が載っていました。

・・・ 長野県上田市の古書買い取り販売会社「バリューブックス」を訪ねた。棚に古書がぎっしり並ぶ。倉庫は市内に5か所。在庫は150万冊ほどあるそうだ。
売り主はインターネットで買い取りを申し込み、古書を箱に詰めて送る。届いたものを同社が査定し、代金を振り込むシステムだ。
同社副社長の中村和義さん(39)によると、1日約2万冊届くうち、半分の約1万冊は値段がつかないという。それらの多くは古紙として回収され、ざら紙や段ボール、ペーパータオルなどに再生される。
回収を待つ本のコンテナをのぞくと、ベストセラーだった書籍も交じっていた。「人気があった本は、古書の市場にもたくさん出回るので、値段がつかないことも多いのです」と中村さん・・・

私も本を買うときに、バリューブックスを時々利用しています。我が家にある古本を売ろうかとも考えているのですが。引き取った本のうち半分が売れないとは。

東洋の古典、西洋の古典

ふと思い立って、柳沼重剛著『ギリシア・ローマ名言集』(2003年、岩波文庫)を読みました。途中寄り道して、『ギリシア ローマ 古代知識人群像』(1994年、岩波・同時代ライブラリー)も。

名言の中には、漢文や古文にもよく似たのがあったりします。でも、ラテン語や英語での表現は知りません。
日本は明治以来、それまでの中国文化から西洋文化に乗り換えました。私の父親までは漢文が素養であり、毛筆も必須でした。私は漢文も不十分で、毛筆もできません。肝冷斎のような古典漢文通は、絶滅危惧種でしょう。
とはいえ、記紀、万葉集、源氏物語、平家物語などのさわりは、身につけています。

次の世代は、英語が必須になりました。しかし、西洋古典の、ギリシャ・ローマ、聖書、シェイクスピアには、子どものころから慣れ親しんでいるわけではありません。
私たちの世代までが漢文を少し理解できたように、西欧の知識人はラテン語を学びました。これからの日本人たちが、英語で西欧の人たちと会話する際には、このあたりは不利でしょうね。

「絵画で読む『失われた時を求めて』 」

吉川一義著「絵画で読む『失われた時を求めて』」(2022年、中公新書)を読みました。
以前、吉川一義著「『失われた時を求めて』への招待」を読みました。もっとも、『失われた時を求めて』は、まだ最初の部分しか読んでいないのですが。
「絵画で読む」を読んで、プルーストを読むには、これだけの背景を知らないといけないのかと、あらためてその難しさを感じました。19世紀末から20世紀初めのフランス上流階級では、このような西洋絵画の知識は当然だったのでしょうね。

掲載されている絵画を見て、「これやこのような絵は、展覧会で見たよな」と思い出しました。それらがやってくる展覧会も多く、日本にいながらで、西洋絵画が古典から最近のものまで見ることができます。ありがたいことです。