フランス編
9月27日(金曜日)(パリのホテル)
昨日イッセブルグの調査を終え、デュッセルドルフで宿泊。今朝は、ケルンへ移動し、列車へ。列車は、静かにヨーロッパの平野を進み、1時間でベルギーへ入った。この後、3時間でパリ北駅に着く。ナポレオンもヒットラーも、すぐに国境を越えるはずだ。
2時すぎにパリ着。3時にクレア・パリ事務所について、山下所長自らの説明を聞く。よく働く調査団だ。1時間程度と始めたが、所長のお話がわかりやすく、いろんなことを教えてもらっているうちに、2時間が経過。どこに行っても、予定時間を遙かに超えてしまう。いくつも、ためになることをうかがったが、それはまた次に書くこととする。
9月28日(土曜日)(引き続きパリのホテル)
パリで思ったことその1
今日は、土曜日で、調査対象の相手がいない。というより、出張中でも休みでしょう。地下鉄で移動中、少女3人組のスリ団が「仕事をする場面」に遭った。「少女の3人組、4人組を見たら、スリと思うべし」とのこと。日本はなんと安全なことか。安全は、重要な社会資本だ(予告。この点は、『地方行政』に連載中の第8章2につながります)。
通貨が統一され、ユーロになっている。イギリスはポンドで、ドイツに入る際に両替が必要だが、その後、ドイツ、フランス、イタリアと両替の必要がない。これは便利。パスポートのチェックもほとんどない。ヨーロッパの実験を改めて感じる。これは、道路以上の社会資本だ。
パリで思ったことその2
休みの間に、ルーブル美術館などを見て回った。気になるのは、観客の7割が東洋人ということ(休みの日の朝ということもあるか)。パンフレットなども、各国語が用意してある。日本、韓国、中国。日本人と他の東洋人との違いは、立ち居振る舞いで、わかる。きっと10年ぐらい前までは、西洋人は、日本人の行動に顔をしかめていたのだろう。
ノートルダム寺院の入り口に「静粛に、ここは祈りの場」といった看板が立っているが、一番目が日本語、あと英語やドイツ語。韓国語と中国語はまだ書いていない。「フラッシュをたくな」とか、「他の人を考えずにめいめい記念撮影をするな」とか、これからいくつかの言葉でも必要になるだろう。
まあ、それにしてもたいしたもんだ。世界中から「お上りさん」を集め、100年前の建物を見せて金を稼ぐ。ホテルはもちろん、ワインを飲ませ、ショウを見せ、高級ブランドから絵はがきまでを土産に買わせる。その他いろいろな商売あり。タクシー、観光バスからガイドさん。かっぱらいから、・・・。
金を落とすのは、アメリカ人、日本人、ドイツ人が御三家のようだ。町を歩いていても圧倒的にこれらが多いし、トイレの表示からしてこの3カ国。それに、韓国、中国が増えてきている。町の中には、アフリカ系や中近東系、中国系(ベトナム?)も多い。旧植民地からであろう。
地下鉄の車両の中で、突然演奏が始まる。アコーデオン、中にはクラリネットを含む4人組がいた。終わると寄付を集める。いろんな商売があるもんだ。私も将来、丸の内線か御堂筋線で、フルートを吹くか。
9月29日(日曜日)(マントンのホテル)
今日は日曜日。朝、パリ・オルリー空港から南仏ニース空港へ。地中海沿いの当地は、雲があったものの、空気が違う。晴れてくると、空の青さに、地中海の青さ。北フランスから来たら、その明るさに驚く。多くの画家がここで絵を描いたことはわかる。当然気温も暖かく、半袖でいい感じ。
今晩の泊まりは、マントン。ここは、地中海沿いのイタリア国境の町。西隣はモナコ、もう一つ西はニース、さらにカンヌ、サントロペと続く、コート・ダジュールの町。これらは日本でも有名だが、その東端の町。
海にヨットが浮かぶ、きれいな海岸、ホテルが並ぶ。と言えば写真はいいが、山が海に迫っていて、その斜面に家が建っている。日本で言えば、熱海。もっとも、こちらは建物の色や形が整っていて、きれいではある。海からみた町の景色の絵はがきを売っているが、熱海の風景の絵はがきってあったかなあ。これは、日本のどの町にも通じる。
さて、どうして食っているか?町の真ん中は観光業で食ってる。でも、明日行くサン・タンニェス村は、ここから10キロ山の中。ニースから高速道路で来たが、途中は山ばっかり。その山は、禿げ山に近い岩山ばかり。何も獲れそうにない。
ちなみに、マントンは引退した老人の保養所。町や海岸は老人ばかり。フランスでも一番に高齢な町とのこと。それで治安はいいらしい。この人たちは、金を持って歩いていない。「窃盗団」も仕事にならないのだろう。70歳とか80歳のご夫婦=うちの両親ぐらいが、手を繋いで歩いている。時間がゆっくりと流れている。
9月30日(月曜日)(引き続きマントンのホテル)
今日は、朝から、サン・タンニェス村(Sainte-Agnes)での調査。マントンからは10キロ山に入る。もっとも、半端な山ではない。海岸から4キロほど奥だが、標高650メートル。絶壁の岩山をつづら折りの道を上っていく。岩山なので、まばらにしか木が生えていない。でも、道は絶壁を削るだけで、土砂崩れはしない。セザンヌの絵に、サン・ビクトワール山というのがあったが、あれ。
岩山の頂上近くに100戸ほどの家がかたまってへばりついている。これが村。正確には、ここは旧村で、80人ほどしかすんでいない。周りの山々にへばりついている家をあわせて、1000人とのこと。まあすごい。平たい土地は猫の額もない。さらに50メートルほど上が山の頂上で、そこに砦、中世の城跡がある。眼下にマントンの町と地中海が広がる。
ローマ時代からの砦。中世には海賊の見張り台。昔は、海賊をおそれ、そこに住んでいたが、14世紀に今の場所に「降りた」。そこは、水がでる。今は、下からポンプ・アップしているが。
「フランスの美しい村100選」に載っているだけあって、それは美しい。でも、十津川や祖谷も、これ比べればかわいいもんだ。
住人は、マントンや隣のモナコに働きに行っている。小学校もないので、毎朝、家族がマントンまで車で送っていく。都会を離れ静かさを求める人と、家が安いのでここで買う人が住んでいるとのこと。
1 議員
15人。ほとんどが退職した人たち。私たちを相手してくれた助役や財政担当も、みんな退職者。「だから、月曜の朝からおまえたちの相手をしていられるんだ」とおっしゃる。納得。退職者ではない人も、就任することがあるが、時間通りに来なかったり、全然出席しなかったりで、評判が悪いとのこと。
議会は、8月を除く毎月1回。18時30分から。終わりは24時とか、それよりも遅くなることがあるらしい。「翌朝までやったこともあるじゃないか」「市長が話し好きでねえ」と笑っていたが、それを説明する人もなかなかの長広舌。
傍聴者は、ほとんどいないとのこと。その代わり、10月に3地区に分けて、住民集会をする。市長以下議員がでて、話を聞くとのこと。教会の前に、今度のお知らせが張ってあった。
市長(村長)は互選。助役は、第1助役、経済担当、旧村担当、下村担当の4人。市長、助役の給料は、法律か何かで決まっているとのこと。人口1千人から3千人の村だと、村長は月額1,315ユーロ。1ユーロは125円だから、16万円ぐらいか。助役は388ユーロ、5万円ぐらい。議員は、交通費などの実費支給だけ。議会に出席する職員は1人。職員数は、パートを入れて14人。常勤は3人。
選挙は6年ごと。フランスは、難しい比例選挙。村で聞いたら、2つのグループが、候補者リストを出す。有権者は、投票用紙に印刷してある候補者名のうち、いやな人の名前を線で消して、15人を選ぶ。上位15人が当選。村長はその15人の中から互選。
ここ続けて3回、同じグループ同士の戦いで、今のグループが勝ち続けている。敵方は15人リストを揃えられず、1人も当選しない。党派の名前を聞いたら、みんなで、「何という名前だっけ」と考えていたが、結局、自分たちの党の名前を思い出せなかった!
服装の話になった。こちらも気を利かせて、紺のスーツはやめて、ネクタイと派手目の上着で行った。向こうはノーネクタイ。恐縮していた。「ネクタイは持ってきたがね」とポケットから見せてくれた。「議会もノーネクタイか」と聞いたら、当たり前だと言う顔をしていた。
ここに限らず、紺のスーツはやめた方がいい。それが群をなして歩いていると、それだけで「異様」だ。まず、男が10人も群をなしているのが異様。紺のスーツは異様。カメラを掛けているのも異様。東洋人の固まりは・・。
2 行政内容
幼稚園と小学校は村の仕事。しかし、小さすぎるので隣近所の町に委託している。親がどこの町の学校に行くか決める。委託先の町が、総経費を全部の生徒で割って、生徒一人あたりの経費を計算する。そして人数分だけ、分担金をサン・タンニェス村に請求する。
村には1960年代まで学校はあった。旧村の村役場に、「学校」との標識がかかっていた。役場が学校だったということ。ここは、教師は国家公務員。新しく道ができて、車が通るようになったから、町の学校に通うようになったのだろう。それまでは、町に行くにはロバに乗って上り下りしていた。
経常会計の収入は、541,000ユーロ。うち税金は160,000ユーロ。ほとんどが人件費。
税額・税率は、近年上がっているとのこと。住居税は5年間で6.2%から、7.55%まで上がった。住民はかなり反対しているらしい。この国は、課税標準は法定、税率は自治体が決める。徴収は国がやってくれる。
投資会計は、380,000ユーロ。大きいのは道路の補修。
今の市長になってから13年間、起債をしていない。過去の残高が大きく、今返しているとのこと。3年前に大災害を受け、道路がかなりやられたが、起債はしなかった。後3年で返し終わる。「子供たちに借金を残すのはよくないので」とおっしゃる。うーん。
3 課題
今一番の課題は、合併とのこと。といっても、市町村(議会)はそのままで、業務を組合でするとのこと。促進のための法律ができ、国の地方長官(かつての知事)が熱心に進めているらしい。でも、ここは100年前から、水道は組合でやっている。民間委託も、イギリスよりずっと進んでいるようだ。
社会保障は県の仕事なので、村は仕事はない。「若者も騒がないので、議会の社会問題委員会は暇だ」と言っていた。
次はゴミの収集。これはニース市に委託している。後3年でいっぱいになり、ニース市から断られそうだという。今度分別を始めるというので、日本の分別のすごさを教えたら、びっくりしていた。ゴミ集めは民間会社に委託。使用料で経費を賄っている。
4 町の活性化
祭りを開いたり、お城を修復したり、山歩き会を開いたりして、町の活性化と観光客の呼び込みをしている。これが、村の中で一番の課題らしい。ちょうど昨日は、「キノコ祭り」だった。
活性化は、ボランタリーな会(会というほどのものでもないか)が中心になっている。議会でも議論する。でも、普段顔なじみなので、議会の前に決まってしまう。
お城の修復費用は、国が80%の補助。ボランタリーの会が20%。といっても金はないので、入り口の「ご寄付」が財源。国の雇用交付金(週30時間)を使って「障害者や社会でうまくいかない人」を使ってやっているといっていた。
城の下の岩盤の中に、1930年代のマジノ線の地下要塞があり、村が払い下げを受けて観光用に解放している。これも、ボランタリーの会がやっている。
私たちがいる間も、かなりの人が村に来ていた。観光バス、といっても小さいのしか上がってこれないが、2台。村のレストランは30人ぐらいは入っていた。国外からの人も多そう。南仏を旅行していてここに立ち寄った、という人が多いらしい。
ここから5キロほど西、列車で10数分で隣の国「モナコ」に行ける。もっとも、東へ5キロ行けば今度はイタリアだ。夕ご飯の後でも行けたが、やめておいた。何せ、今日は、朝の9時から4時半まで、昼食中もずっと調査。しかも向こうからの質問付き。「聞きたいことがあった」と。
「日本に帰ったら、サン・タンニェスをみんなに紹介してくれ」「今回の調査を、どう生かすのか」「報告書は、日本語でいいから送ってくれ」旧村担当助役(女性)は、今度の村の広報に載せるからと、写真を撮ってくれた。広報は3ヶ月に1回、村長と助役で書いて、印刷だけ会社に発注している。
向こうも疲れただろう。最後までつきあってくれた財政担当は、78歳のおじさん(おじいさん)。山の砦もつきあってくれた。感謝。「僕のホームページに、村のホームページのリンクを張る」と言ったら喜んでくれた。「大学の授業でも紹介するよ」とも言っておいた。
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