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生き様-旅行記

2004年欧州視察随行記

2004年8月に、衆議院総務委員会理事たちの海外視察に随行して、ヨーロッパに行って来ました。その記録です。2006年7月の随行記は、2006年欧州視察随行記へ。
8月17日(火曜日)
成田空港を、昼の12時に離陸。11時間30分の飛行で、ドイツ西部のフランクフルト空港に到着。日本時間では23時半、でも現地時間では16時半。
かつてに比べ、搭乗時間は短くなり、また機内も快適になった。とはいえ、12時間座りっぱなしは疲れる。若いときは、機内食とワインが楽しみだったけど、この年になるとね・・。
ホテルに到着後、軽く夕食を取る。本日4度目の食事。まだ明るいので、市内を散策する。こちらは緯度が高いので、この時期は夜の9時頃まで明るい。
これがくせ者。旅行期間中、ついつい遅くまで「がんばって」しまうことになる。身体は正直で、体内時計は「朝の4時頃」。徹夜のようなものなので、だるい。気温は20度前後。
今回の旅行は、衆議院総務委員会の海外視察の随行。国会には、国内視察のほか海外視察という制度があるとのこと。今回は、郵政事情と地方自治を調査するため、ドイツとフランスが選ばれた。委員長ほか理事らで、合計7人の議員。党派は、自民党、民主党、共産党、社民党。期間は8日間。
その視察団に、衆議院事務局職員1名が随行するが、政府側からも総務課長と補佐の2名が随行することになった。自分が団長で行くのと異なり、えらく勝手が違う。とはいえ、職務ですから。ハイ。
8月18日(水曜日)
ホテルから出発しようとしたら、バスが故障。修理のめどが立たず、領事館が別の会社に交渉し、代車を仕立ててくれる。
議員「岡本さん、このバスはどこのだ?」
全「はい、ベンツと書いてありますが」
議員「ドイツ、ベンツと言えば、頑丈で壊れないというイメージだったけどなあ。ドイツのモノ作りも、だめになったねえ」
全「いやあ、先生。日本にも(欠陥を隠していた)三菱の車もありますから、あんまり他人のことを批判できないですよ」
議員「それもそうだ」
昼食は予定を変更し、高速道路のサービスエリアですます。先生方にも、「いろんな経験ができて、この方がおもしろい」と納得していただく。この理由にはやや無理があるが、仕方ない。理解ある先生方なのでありがたい。でも、出だしからこれだと・・。
ボンやケルン、デュッセルドルフも通過し、第1の訪問先であるエッセン市役所に行く。
副市長と会談。かつてルール工業地帯の中心として繁栄したエッセンも、エネルギー革命による石炭衰退でさびれた。それを復活させた。そのこつを聞こうというのが、今回の目的。
ポイントは、石炭で汚れた空気と街をきれいにすることで、「健康」をキーワードに持ってきたこと。そして大学病院や研究機関を誘致したこと、と見た。民間企業の協力も、大きいようだ。
その後、かつての炭坑を見に行く。施設(建物)は、1930年代に造られ1980年頃まで使われていた。その後廃墟となっていたが、世界文化遺産に指定され、現在はデザインセンターに転用されている。ナチスの威信をかけたのか、確かにモダンなデザイン。
日本の炭住とは、えらい違うイメージ。ただし、この施設は工場部門であって、住宅部門ではない。そこは、どうなったんだろう。
泊まりは、デュッセルドルフ。
在ベルリンのドイツ大使館から、稲原君(総務省の後輩)が、案内のために来てくれている。デュッセルドルフ総領事館には、総務省から水間君が出向している。稲原君(地方行政専攻)と水間君(郵政・情報専攻)と、2人がサポートしてくれるのでありがたい。夜は総領事から、現地の事情を教えてもらう。
8月19日(木曜日)
今日は、視察がびっしり。まず、ボンのドイツ・ポスト本社を訪問。戦略担当課長の説明の後、役員との質疑の時間をとってもらう。
NHKベルリン支局長が、カメラマンを連れて取材に来ている。それだけ注目されているということ。この模様は、日本時間20日朝のNHKニュースで放映された。本社での質疑の模様と、中央郵便局での視察の模様が映っていた。翌日ホテルで、日本語TV放送で見ることができた。
カメラ取材の際には、小生は映らないように席を外した。にもかかわらず、ニュースでは、中央郵便局の入り口で先頭を歩いているところが「でかく」映ってしまった。早速、メールで「見たよ」と教えてくれる知人がいた。
視察団の質問は限りなく、あっという間に1時間半が経ってしまう。昼食時間に食い込んで質問を続けようとしたら、「重要な人が昼食会場で待っているので、急いでくれ」とのこと。近くのレストランにいくと、会社の政治顧問ともいうべき女性が待っていてくれた。ここでも、昼食を取りながら、質問攻めにする。
ドイツ・ポスト(日本の郵政省に当たる)は、1990年代に国営から民営化された。銀行部門(日本でいう郵貯)を分離したが、後に吸収するなど、紆余曲折を経ている。小包部門では、アメリカのDHLを買収して、国際市場で攻勢にでている。DHLって、荷物車が日本でも走っているじゃないか。
逆質問もあった。「日本は、海外戦略をどう考えているのか?」この質問は、中国市場を念頭に置いたものだろう。この質問には、考えさせられた。
議員の先生の何人かは、携帯電話を持ってきておられる。国際電話もかけられる。と言うより、日本との連絡のために持ってきておられる。ところがその機種は、ドコモではない。ドコモはヨーロッパでは使えないとのこと。
「電電公社民営化の時、分割したことで国際競争力が落ちたのではないか」などなど。この話と合わせ、ひとしきり「日本での民営化と海外戦略」について議論が盛り上がった。
国際関係担当課長の話だと、既に20チームほど、日本からの訪問団を受け入れているとのこと。ある役員の名刺は、名前をカタカナで書いてある。課長からは、「竹中大臣、あぞう大臣(麻生asoをドイツ語読みするとアゾウになる)・・・」と、次々日本人の名前が出てくる。
規制庁から中央郵便局に移動する際、彼が「自分の車に、誰か乗らないか?」と言うので、私が小型のベンツに同乗した。彼は「小泉の改革はどうなるのか」と質問するが、既に経済財政諮問会議の中間取りまとめも知っているし、国会の状況もよく知っている。私のさび付いた英語でやりとりするので、もどかしい。
午後は、政府側の規制庁(ドイツ・ポストを監督する側)に行く。ここでは、民営化前後でのサービスの変化や今後の方針を聞く。ドイツはご存じの通り、EU(ヨーロッパ連合)に属している。ドイツ政府の規制だけでなく、その上位にEUの規制がある。そしてEU内には、東欧の「後発国」があり、その調整が難しい。もっとも、それらはドイツ・ポストにとって「市場」でもある。
その後、ボン市の中央郵便局を視察に行く。えらいハードなスケジュール。
ボンは、かつての西ドイツの首都(暫定首都)であった。今も、連邦政府のいくつかの役所が置かれている。空いたビルのいくつかは、国連の機関に貸しているとのこと。残念ながら街を見学する時間はない。
ドイツ・ポストは新社屋を建てた。ガラス張りの高層ビル。「何で、こんなに大きいビルを建てたんだ」と聞いた。僕の英語が悪かったのか「ガラス張りにして、ドイツ・ポストの透明性を利用者にアピールしたかった」との答えが返ってきた。

2003年韓国訪問記2

(3)韓国人と日本人の違い
日本人と韓国人は、約6千年前に分化したという説があります。何年前かはわかりませんが、どうもそう古い昔ではないような気がします。
これまで、私は、「韓国と日本はこんなに近くにいながら、どうしてこうも違うのだろう」と思っていました。しかし今回、「そんなに違ってないぞ」と思うようになりました。
日本人と韓国人の違いを考えるとき、生物の面と文化の面があります。まず生物の面です。顔を見ると、多くの韓国人と日本人の顔は区別がつきません。ソウルの街角と東京の街角で、通行人の写真を撮ると、たぶん多くの人は区別が付かないと思います。
確かに「この顔は韓国の顔だ」と思う顔もあります。でも、その多くは、文化による顔の違いではないでしょうか。私たちは、髪型の違い、化粧の違い、服装の違いで区別しているのではないでしょうか。
(若いころ、「おまえの顔は韓国系だ」と言われたことがありました。まあ、私は飛鳥の出身なので、「1300年前に朝鮮半島から渡ってきた帰化人の子孫かもしれないなあ」と思っていました。その後、韓国に行くたびに、「私は1300年前に・・」なんて言ってたら、韓国の人に、「あなたの顔は、韓国にはありません。大陸系(中国系)です」と、きっぱり言われました。)
(4)文化という化粧
今回、訪問してそれに気付きました。かつて私が感じた韓国人と日本人との違い(また、中国人との違い)ほどには、今回はわからないのです。ということは、私が韓国人と日本人とを識別していたのは、生物的な顔の違いではなく、「付属した文化の違い」をもって識別してのでしょう。
そこで問題は、生物的人間がまとっている文化という衣です。それは、服装や化粧や言葉でしょう。さらに、住まいや食事でしょう。
近年の両国の経済発展の接近と、両国の国際化でこれら文化のうちのいくつかは、かなり近接しました。たとえば、服装と化粧はほとんど区別がつかなくなりました。住まいと食事も、近くなりました(いくつかの違いについては別述べます)。残る一番の問題は、言葉です。
もっとも、韓国人に美人が多いこと、足がきれいなことについては、このほかの説明が必要です。
3 文明と文化
(1)差の強調か共通点の強調か
「文明」を国境や民族の違いを越えて伝わる生活様式と定義し、「文化」を国境や民族の違いを越えない生活様式と定義しておきましょう。すると現代人の生活を規定する生活様式から見て、次のようなことが言えるのではないでしょうか。
日本と韓国の違いを大きな観点から見てみましょう。すると、両国・両国民の違いはそんなに大きなものではありません。6千年の歴史で見ると、高々2~3千年の期間につくられたものです。その差をつくったのは、国家です。そして、特にこの200年ほどの期間に、特にその差を強調したのです。
日本と韓国の違いは、次々と消えつつあります。自由主義・民主主義・資本主義については、同じ理念を共有し、世界の中でともに生きています。行政制度は政治の選択ですから、違いは残りますが、これもそんなに大きな違いではありません。政治・行政の面で両国は違いを強調するのではなく、する必要もなくなりました。
(2)縮まる違い
経済状況も、ほぼ同じようになりました。私は、これが両国の差をなくすると考えています。他方をうらやむこともなく、また他方を蔑視することもなくなります。
また、生活の様式も近接します。服装・食事・住まいも違いがなくなります。もっとも、スーツ・ジーパンや女性の服装が共通化しても、チマ・チョゴリと着物が結婚式に用いられるように、伝統文化はそう簡単にはなくなりませんが。食事も、キムチと伝統的和食はなくならないでしょう。でも、パン、ハンバーグ、ビールといった共通に食べる食品が増えました。日本でも、キムチや焼き肉といった韓国料理がはやっています。お互いに、相手の伝統的な食事を食べることに抵抗がなくなりました。
伝統的服装も伝統的食事も、高々この2千年の間につくられたものでしょう。この20~30年の間に起きた「接近」を空想の世界で延長すると、これから50年たつと、どれだけ日本と韓国の差は残っているのでしょうか。
さて、残るのは「言葉」の違いです。いろんなものが標準化される現代の世の中で、もっとも標準化が遅れているのが言葉でしょう。
しかし、日本語と韓国語はかなり似た言葉のようです。中国語や英語との距離とは違います。言語学者に聞いてみなければなりませんが、何千年前に二つの言葉は分かれたのでしょうか。そして、これから何百年経てば「方言」くらいの違いになるのでしょうか。
(3)楽しみな未来
今回、韓国に行くに当たって、司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズのうち、「韓のくに紀行」と「耽羅」を持って行き、ホテルのベッドで読み返しました。耽羅とは済州島の古名です。司馬さんは、6千年あるいは2千年という歴史の中で、二つの国の関係を論じておられます。いつもながら、その分析の鋭さに感心します。
しかし、この2著が書かれてから、20ないし30年が経っています。韓国は民主化し、また経済発展しました。ソウルはかつての大阪より「近代化」し、街には日本からの女性観光客があふれています。司馬さんが、貧しさとみかんの島と描いた済州島も、年間15万人の日本人が訪れるリゾートになりました。
今、司馬さんが韓国を訪れたら、どのような本を書かれたでしょうか。私が、以上のような感想を考えたのは、司馬さんの本の影響が大きいです。それは二つの国が歴史的にそんなには離れた国でないということを、再度思い返してくれました。そして、司馬さんの本のいくつかの部分が、今や「時代遅れ」になっていること、そして、急速に両国が接近していることを感じさせてくれたからです。さらに、楽観的すぎるかもしれませんが、このままいったら、もっと両国は近くなると感じたからです。
このような話をしていたら、ある人が、「違いがなくなったら、旅行に行く魅力がなくなるじゃないか」とおっしゃいました。
そうですね、きっと国内旅行並になるのでしょう。すると、EU内で、隣の国に行くような感じになるのでしょう。
参考文献
岡崎久彦著「隣の国で考えたこと」(1983年、中公文庫)
木宮正史著「韓国-民主化と経済発展のダイナミズム」(2003年、ちくま新書)
森山茂徳著「韓国現代政治」(1998年、東京大学出版会)
クレアソウル事務所編「韓国の地方自治」(2003年)

 

2003年韓国訪問記

2003.8.30記、 2004.11.13補訂
【韓国との交流】
2003年8月25日から29日まで5日間、韓国へ行ってきました。韓国行政自治部と日本の総務省との内政関係定期交流セミナーです。韓国の内務部(内務省)と自治省との間で始まったこの会議は、今年で12回目です。双方の幹部が、交互に訪問し議論します。今年は、日本側が韓国を訪問する番です。西村事務次官を代表として、自治行政局・財政局・税務局の幹部が行ってきました。行政・財政・税制について、それぞれの現状と問題点の説明、質問と討論を行うほか、自治体現場で議論もしてきました。お互い、熱心な国民性(?)なので、日程は強行で、へとへとになりました。
「隣の国で考えたこと」(中公文庫)は、岡崎久彦さんの名著ですが、私も私なりに、いくつかのことを考えました。短い滞在でしたが、韓国行政自治部のお計らいで、いろいろと見せてもらえました。少しの滞在で考えを述べることは「危険である」ことは、十分承知しています。その上で、「隣の国で考えたこと」を書き留めておきます。(2003年8月30日)
1 韓国の地方行政
(1)韓国の民主化
韓国は、1987年の民主化抗争を経て、それまでの権威主義体制(独裁的政治体制)から民主主義体制(自由主義政治体制)に変換しました。第二次世界大戦後の韓国の政治・経済・社会の変化については、木宮正史著「韓国-民主化と経済発展のダイナミズム」(2003年、筑摩新書)がわかりやすいです。私も参考にさせていただきました。
韓国での民主化は、簡単に言えば、反政府デモが軍隊に鎮圧されないこと、大統領の交代が選挙で行われることと言っていいでしょう。地方行政についても、劇的な変化がもたらされました。中断されていた地方首長と議員の選挙が再開され、地方自治が復活したのです。あわせて、地方自治体への権限移譲が行われました。
(2)韓国の行政
韓国は大統領制で、日本は議院内閣制です。その違いはありますが、各省の仕組みは似ています。日本の省に当たるのは「部」です。また、日本に先立ち省庁合併を行いました。かつて、内務部が、日本の自治省と警察庁に当たりました。それが、日本と同じように行政管理部局と合併し、「行政自治部」になりました。日本の総務省(郵政部門を除く)に相当します。
この他、財政経済部、外交通商部、教育人的資源部、法務部、国防部等18の部があり、部の下に、国税庁や統計庁、警察庁といった16の庁があります。
(3)韓国と日本の地方行政 
韓国の地方行政については、自治体国際化協会刊「韓国の地方自治」が新しくわかりやすいです。かつて、日本が「併合」していたこともあり、韓国の地方制度の基には、日本の地方行政制度があるようです。例えば機関委任事務制度もあります。ただし、韓国でも見直しが始まっています。
韓国の地方自治制度は、日本と同様に議会と団体の長が両立する大統領制をとっています。
1991年に地方議会の議員選挙が、1995年に地方団体の首長選挙が実施されました。それまでは、首長は内務部が派遣する内務部官僚でした。戦前の日本の知事と同じです。ただし、道(県)には副知事が二人いて、一人は知事が選ぶ政務副知事で、もう一人は中央政府(行政自治部)が派遣する事務副知事です。
2 日本と韓国
(1)韓国の発展
韓国の発展ぶりには、目を見張るものがあります。前回訪問したのは、1995年頃だったと思います。前回の訪問と比べても、その前の韓国が「貧しかった頃」と比べても、比較になりません。ソウルの街は高層ビルが建ち並び、街もきれいになっています。街行く人も、おしゃれになっています。日本の街角と変わらないのです。
ここで経済を述べるのは、今回の旅で「政治と社会を規定する大きな要素はやはり経済である」ということを感じたからです。
政治体制が権威主義的体制から民主主義に変わったことは、先に述べました。そして、これに併せて、韓国の経済発展がありました。朴正熙大統領(1961~79)の下、いわゆる開発独裁によって、韓国は経済発展に成功しました。しかしそれはまだ、軽工業を中心とした後発型経済でした。それが、1988年にオリンピックを開催するまでになりました。
さらに、この15年間に日本に追いつき、一部では追い越したのではないでしょうか。新聞などでも報道されているように、インターネットの普及などは、日本を抜いています。例えば、韓国では新聞の記事そのものをインターネットで無料で読むことができます。日本では記事のさわりしか読めませんが。
韓国は1997年の通貨危機を経験し、ドル換算でのGDPは6割にまで減少したと伝えられています。最近の国民一人当たりGDPは、日本の27.5%(日本32,160ドル、韓国8,982ドル。2001年)になっています。
(2)韓国との交流
韓国は日本にとって「近くて遠い国」と言われてきました。私も、そう感じていました。しかし、今回の訪問を通じて、いよいよ「近くて近い国」になれるのではないか、と思いました。
まず、行きの飛行機です。8月下旬ということもあるのか、乗客のほとんどが若い女性でした。男性は数えるほどです。女性の服装も、ちょっとそこまで、という感じのラフさです。かつて韓国旅行といえば、日本の男性が「批判を受けるような」観光に行っていたことに比べ、まったく違っています。
これが、「交流」「相互理解」なんだと思いました。要人が訪問したり、経済関係が太くなることも交流でしょうが、市民レベルでの相互理解は、それらとは大きく異なると思います。
特に日本と韓国の間には、不幸な歴史がありました。正直言って、私は若いころ、「いつになったら日本と韓国は相互理解ができるのか」について、自信がありませんでした。アメリカとは戦争をしながら憧れる国になり、一方、韓国にはあれだけの被害を与えておきながら、そう親しくなったとは言えませんでした。
それを克服するのは、政治の仕事だと思っていました。しかしそれは、なかなか難しいことです。国民感情ですから。それが、いわば「草の根」で、達成されようとしているのです。その基礎には、韓国の経済発展があります。これについては、後に述べます。
(その後、韓国のテレビドラマが日本でヒットしたことは、ご承知のとおりです。この場合も、主力は女性です。)
また、歴史をさかのぼれば、古代では朝鮮半島から進んだ文化を輸入しました。江戸時代も、朝鮮通信使を尊敬したのです。案外忘れられていますが。

 

2002年欧州探検記4(イタリア編)

イタリア編

10月1日(火曜日)(フィレンツェのホテル)
今日は、マントン(フランス)からフィレンツェ(イタリア・トスカーナ州の州都)まで、バスで移動。朝出て、夕方着いた。途中で国境を越えたが、高速道路を走っているうちに通過。「表示」に気がつかないと、わからない。
フィレンツェ市内は、ルネッサンスの建物、芸術がそのまま残っている。メディチ家の残した町。15世紀がそのまま残っている。町にとってそれがいいことかどうか。発展が14世紀で止まったということだ。

10月2日(水曜日)(引き続きフィレンツェのホテル)
今日は、シエナ市役所を訪問。5万人あまりの市。フィレンツェから60キロ離れている。フィレンツェと違って、丘の上にある。世界で一番美しいと言われるカンポ広場と、そこで行われる地区対抗競馬で有名な、中世からの都市。もっとも、ベネチアのサンマルコ広場も世界で一番きれいな広場と言っていたよな。
13世紀までは、フィレンツェより強かったが、16世紀に負けて取り込まれてしまった。ここは、町が小さいことと、フィレンツェに負けたこともあって、フィレンツェ以上に、中世の町がそのまま残っている。
この町の特徴は、中世の町並みや行事を残しつつ、新しいことに挑戦することだと言う。「フィレンツェ(古いことを守るだけ)とは違う」と通訳の指摘。新しいことの象徴が、シエナカード。また、イタリアの住みよい町のトップ3に入っているらしい。

午前中は「シエナカード」の説明を受ける。プリペイドカードと、市役所の個人証明カードと、市役所への納付金カードを兼ねている。詳細は、別途書く。説明してくれたマリオ君は、まだ20代前半と見受けた。コンピュータの技術者と言っていた。
シエナカードは、今はシエナ市だけだが、フィレンツェ市のシステムも受託した。さらに、その他の周辺市も引き受けるとのこと。彼の自慢は、「500年前に、シエナはフィレンツェに負けて併合されたが、今回シエナがフィレンツェを征服した」こと。何か、わかるような気がする。
午後は財政担当助役から、財政と議会について教えてもらう。この町の財政は、ほかの町とは少し違う。市営銀行を持っていた。今は市から分離されたが、市は株主で多額の「上がり」があるとのこと。

イタリアの町
1 国からの一般交付金が、近年、減額されている。国の財政難による。その分は、増税などで埋めている。歳出は、毎年3~4%ずつ増えている。

2 税金は不動産税が中心。居住用不動産税と、非居住用不動産税に分かれている。居住用不動産税の方は、近年少しずつ税率が下がっている。「なぜか」と聞いたら、市民の「要望」とのこと。その代わり、非居住用不動産税の方は、大幅に上がっている。
この税率は、議会で自由に決めることができる。この他、所得課税は国税の付加税で、率の上限が決まっている。シエナは、ほかの市に比べ率が低いとのこと。銀行からの上がりがあるからだろう。

3 滞納について
税金の滞納について聞いたら、脱税も滞納も多くないとの答え。「シエナは、市民と市議会が良好な信頼関係にある」と言う。にわかには信じられないので、「言いにくいが、イタリアは脱税が多いと聞いている」と言ったら、「日本が一様でないのと同じように、イタリアも一様ではない。」とおっしゃる。
「まず、トスカーナはまじめな地域である。さらにシエナは、その中でも、伝統的に市民と市議会が信頼でなりたっている」と答え。両の手のひらをあわせ、お互いにもたれあっている(漢字の人の字)形を見せてくれた。「だから住みやすい町だ」とも言っていた。 

4 借金は投資的経費のみ
「税率を引き上げる代わりに、借金を増やすことはないのか」の質問には、「起債は、法律で、投資的経費のみに限定されている」とのこと。当たり前だわな。違うのは日本の方だ。

5 「スワップ」取引をやっている。
収入の項目に、スワップの項目がある。最初、ほんまかいなと思ったので、話が通じない。向こうが「英語の分かるやつはいないのか?」というので、聞いているうちに、何かの利子に連動したスワップらしい。5年ほど前に許可されたとのこと。
「失敗することがあるだろう」と聞いたら、「リスクはある」という。「ほかの町で失敗したところはないか」と聞いたら。「これと同じものではないが、大損をした町があって、審査会が開かれている」とのこと。

6 いくつも会社を持っている
銀行は特別として、いくつも子会社を持っている。子会社の一覧表を見せて説明してくれた。ガス、交通(バス)、・・・。大株主になっている会社と、少し株を持っている会社の2種類に分けていた。

7 課題
今一番の課題は何かと聞いたら、「国の交付金が削減されること。来年度はさらに大幅に削減される予定で、困っている」。経費削減については、「市営の薬局を民営化すること」が課題らしい。薬局以外にもいろんな投資をしているらしいが、時間がないので聞けなかった。

8 議会
議員は41人。月に2回程度開かれる。朝の8時から夜の8時頃まで。日当が、一回当たり60ユーロ。勤め人は会社を休むので、その埋め合わせ分を市が会社に払う。自営業はそれはない。その年間総額は15万ユーロ。
前回の選挙には500人ぐらいが立候補した。政党別のリストで、30人揃えなければならない。それでどうしても多くなる。候補者リストには、「幽霊候補者」もいて、一票も入らない人もいると笑っていた。

まだまだ、書かなければならないことがあるが、これぐらいにして終わり。調査報告書にまとめよう。

10月3日(木曜日)
いよいよ帰国。夜9時30分ミラノ発の成田行き。空港の免税手続き窓口は、いくつも袋を抱えた日本人がいっぱい。ツアー客が続々。圧倒的に女性。20歳台から30台と、50歳以上か。フィレンツェの通訳に聞いたら、7割が女性とのこと。退職した夫婦と見える人も多い。日本人は、元気な金持ちだ。中でも女性は元気。男がなさけないということか。
これから12時間の飛行機。着いたら日本は、10月4日(金曜日)の夕方になる。

10月5日(自宅で)
久しぶりのヨーロッパだったが、楽しかった。正直言って、疲れました。でも、訪問した4市とも、たくさんのことが聞けた。しかも、制度でなく本に載っていないことまで、根ほり葉ほり聞けた。この収穫が第一。
久しぶりに日本を離れて「非日常」生活を楽しめたことが、第二番目。もう少し、スケジュールに余裕があればもっと楽しかっただろうが。これだけの期間にこれだけの訪問調査を入れれば、きつくなるのは仕方ない。まあ、欲張った旅行であった。機会を与えていただいた関係者とご協力いただいた方々に感謝。写真は、団員の皆さんからの提供によるものです。ありがとうございました。

リンク
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