カテゴリー別アーカイブ: 旅行記

生き様-旅行記

2024年イギリス旅行4

2024年イギリス旅行3」の続きです。
旅行中、私以外に、中折れ帽などソフトハットをかぶった人を見かけませんでした。ホテルのドアボーイが山高帽をかぶっていたのと、王宮の職員が制服として白い平らなハットをかぶっていた(赤い襟の黒い制服とともに格好良かった)のを見たくらいです(2006年の経験)。
ホテルやなどで、「いい帽子をかぶっていますね」と声をかけられました。「イギリスでは帽子をかぶった人を見ませんね」と言うと、「そうだ」と返事がありました。ウエストミンスター寺院(教会では帽子を脱ぎます)の入り口では係員が、帽子を褒めてくれた後、少し考えて「アメリカのギャングを想像する」と言われました。「ちがう、日本の紳士だ」と言ったら、「イエス」と笑っていました。

旅行とは、知らない土地を見ること、その歴史を知ること。そして、非日常を楽しむことです。
イギリス史については、「覇権国家イギリスを作った仕組み」で紹介した、近藤和彦著『イギリス史10講』(2013年、岩波新書)が一番の入門書でしょう。
かつては、知らない土地と料理がうれしかったです。ホテルの宿泊も。ところが、最近は、非日常を楽しむというより、日常の良さを再確認するために行っているようです。
何と言っても、おいしいのは日本料理。お酒を飲みながら、キョーコさんの料理を味わうのが一番です。そしてお風呂に入って、畳の上の布団で寝ること。

8日間も日本を留守にするので、事前にこのホームページの記事を書きため予約投稿しておきました。連載原稿にも、めどをつけて行きました。
パソコンを持っていき、電子メールのやりとりをしました。これは便利です。原稿のゲラの確認は、イギリスまで追いかけてきました。右筆さんに手を入れてもらった原稿の確認も。ただし私は、長い原稿の確認は、集中できる環境で、紙でないと見落としが多いので、最終確認は日本に帰ってからです。飛行機の中ではすることがないので、原稿を加筆したり本を読みましたが、ホテルではそんな気にはなりません。

8日の留守の間に、新聞が貯まっています。目を通し、気になる記事を切り取る作業を続けています。

2024年イギリス旅行3

2024年イギリス旅行2」の続きです。
今回は、伝統的な建築物と、田舎の風景を楽しむ企画でした。
若いときにロンドンで、テムズ川の支流で小さなボートで川下りをし、マナーハウス(領主の館)の芝生でビールを飲んだことがあります。もう一度、あのようなのんびりした経験をしてみたいと思っていました。できれば、ナロウボートで運河を巡るとか。原稿の締め切りに追われる生活と、私の性格では、無理ですね。

コッツウォルズのマナーハウス(Charingworth Manor House)は、都市型ではなく、田舎の領主の館でした。広々とした牧草地の中にあります。いつ頃まで邸宅として使われていたのでしょうか。いつ頃にホテルの改装したのでしょうか。よく保存されています。石造りの家は壁や柱は壊れずに保たれるのでしょうが、木造の家もよく残っていますよね。シェイクスピアの生家とか。
湖水地方のウインダミア湖のほとりにあるホテル(Lakeside Hotel Windermere)もよかったです。もっとも、継ぎ足しをして拡張したらしく、初日の部屋は広いのですがたどり着くまで長い廊下と階段の上り下りが大変で、翌日は部屋を変えてもらいました。

建物では、ウインザー城、バッキンガム宮殿、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院を見学しました。これらの紹介は省きます。
ブレナム宮殿は、チャーチル首相の祖先が国王から拝領した建物で、臣下の建物なのに「宮殿」と呼ばれるようです。とんでもない大きさです。そして周囲に広がる敷地も。
チャーチル首相は、スペンサー・チャーチル家の次男の長男なので、相続権はありません。しかし、実家であるこの家で生まれました。チャーチル首相の生まれた部屋や展示室もあります。「チャーチルは身長が150センチだった」との表示がありました。インターネットで調べたら、いろいろありますが168センチくらいだったようです。へえ。

コッツウォルズや湖水地方で、なだらかな丘陵、広がる牧草地を、車窓や船の上から楽しみました。高速道路の両側に広がる牧草地では、ところどころで羊と牛と馬が草を食んでいました。高速道路をまたぐ跨道橋を、羊の群れが渡っているのも見ました。
改めて、イギリスは広いなあと感じます。日本の方が面積は広いのですが急峻で、なだらかな風景は少ないです。傾斜地でも水田を切り開いたの、棚田のような風景になります。それはそれで美しいですが。牧草地や小麦畑に比べ、水田が多くの人を支えたので人口密度が高く、イギリスのようにのんびりしていないのです。

もし私が中世のイギリスに生まれ変わったら、どんな生活をしていたのだろうと、想像してみました。農夫かな、羊かな・・・。「その4」に続く。

2024年イギリス旅行2

2024年イギリス旅行1」の続きです。
いつものことながら、行った初めの数日は、時差に慣れるのに困ります。
観光地で歩く以外は、バスに乗っています。向こうの料理を食べていると、太ります。ふだんでも、若いときのようには食べたり飲んだりできなくなっているので、食事もお酒も控えめにしています。2日ほど辛抱すると、時差も気にならなくなりました。

食事について。
林望(リンボウ)先生に「イギリスはおいしい」の著作があり、私も楽しく読みましたが。今回、「これはおいしい」と思った料理は、なかったですねえ。肉料理、脂っこい、量が多い・・・。太りました。ビールはそれぞれのホテルや店が出すものを選びましたが、それなりにおいしかったです。
日本食がいかに繊細かが、わかります。向こうの料理は、一品(肉、たまに魚)がド~ンと大きく出て、少し添え物があるのですよね。味付けも濃くて単調だし。会席料理や幕の内弁当とは、全く違う世界です。野菜の煮付け、おひたし、煮魚なども。「単品大量、単純な味付け」対「少量多品種、多彩な味付け」でしょうか。専門家はもっと上手な表現をしているのでしょう。それを考えると、日本の主婦と主夫(家庭で料理を作る人)は偉大ですね。

ロンドンにいる知人に、夕食に連れて行ってもらいました。インド料理にしました。中華料理もおいしいとのことですが、それは日本でもよく食べているし。このインド料理は、よかったです。
フォートナム・アンド・メイソンのアフタヌーンティーを、記念に経験しました。味わうというより、雰囲気を楽しむのでしょうね。私は上着に、ネクタイをしていきました。でも、真っ赤なTシャツ・よれよれのジーパンのアジア人もいて、格式は・・・。

湖水地方で自由行動の昼に、何を食べようかと迷いました。すると、うどんを出す店がありました。「Udon Noodle」とあります。小さな店です。うどんも、きつねうどんや肉うどんなどがあり、ほかにカレーライス、牛丼などがありました。
現地の人がやっているようでしたが、味は日本と同等でした。うどんの玉は、どのように調達しているのでしょうか。ネギ、油揚、チンゲンサイも。お茶は、ほうじ茶がありました。
ベトナム人という若い店員が「味はどうか?」と聞くので、「私は日本から来たが、味は東京と同等だ」と褒めておきました。喜んでいました。観光客(アジア系でない)とおぼしき客が次々と来て、流行っていました。うどんは1杯、12ポンド~13ポンド。1ポンド200円で換算すると2500円ほどです。ロンドンには、丸亀製麺のほか、韓国系と英国系のチェーン店のうどん屋があるとのこと。

お金について。
円が安くなったことを実感します。物価は、日本の2倍ですね。
現金を使いません、というより使えません。有料トイレなども、タッチ式のクレジットカードです。食事でお酒を追加する際にも、バーカウンターに行って注文し支払おうとすると、「端末機にカードをかざせ」と言われます。
私のクレジットカードはまだそれに対応していないので、差し込んで暗証番号を入れます。何かと不便です。タッチ式のクレジットカードは、日本のスイカがどこの店でも使えると考えれば良いので、今後普及するでしょう。
地下鉄は、専用のカード(オイスター)です。タッチ式のクレジットカードが使えるとのことですが、専用のカードだと割引が大きいのです。
なので、両替していきましたが、使ったのはティップと硬貨が使えたトイレ(珍しい)くらいでした。紙幣は出番なし。「その3」に続く。

2024年イギリス旅行1

9月12日から19日まで、キョーコさんのお供をして、イギリスに行ってきました。皆さんに読んでもらうような内容ではないのですが、備忘録として書いておきます。
今回もいわゆるパック旅行で、添乗員を入れて16人の旅でした。私たち夫婦を含め、ほぼ高齢者。行程が、高齢者向きですから。

今回の話題は、まずは飛行機から。行きは、アラスカ、グリーンランド上空を飛ぶ、北極圏を東回りです。13時間。ロシアの上を飛べないので。でも、去年の南回りより、早かったです。朝10時前に羽田を出発して、ロンドンヒースローには午後3時に着きました。帰りは、南回りで13時間半。ロンドンを夜の7時半に出て、羽田に夕方5時に着きました。時差は8時間です。
ビジネスクラス席が取れず、上級エコノミー席でした。座席は平らにはなりませんが、横幅と前後幅がそれなりに広くて、辛抱できました。一人50万円の差だから、仕方ないかな。

最低気温は6度の日もありましたが10度くらいで、最高気温は20度くらいでした。35度を超えている日本からは、想像がつきません。軽いコートを持って行き、寒い朝に使いました。去年9月初めに行ったスペインとも大違いです。帰ってきた日の羽田は、33度でした。
ヒースロー空港着陸時に大雨だったのですが、飛行機を降りるときには雨があがり、その後は天気にも恵まれました。湖水地方(ウィンダミア湖)では、午前中に雨の景色を見ることも。雨はこの日だけで、午後から晴れて遊覧船では景色を楽しむことができました。

行程は、ウインザー城、コッツウォルズ(バイブリー)、マナーハウス泊、ストラトフォード・アポン・エイボン、湖水地方、ブレナム宮殿、ロンドン市内(バッキンガム宮殿、大英博物館、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院の内部見学)。
すべて、バスでの移動です。湖水地方以外はロンドンに近いのですが、湖水地方への往復が時間がかかります。「その2」に続く。

2023年スペイン旅行7

2023年スペイン旅行6」の続きになります。

16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間は「スペインの黄金時代」と言われますが、どうしてその後に没落したのか。歴史のあるいは政治の大きな主題です。
ヘンリー・ケイメン著『スペインの黄金時代 』(2009年、岩波書店)が本の山から発掘されたので、読んでいきました。かつて読んだ『リシュリューとオリバーレス―17世紀ヨーロッパの抗争』(邦訳1988年、岩波書店)は、内容を覚えていません。反省。現地の案内人も、いくつか説を教えてくれました。私の理解では、次の通り。

・全世界に領土を持ち、ヨーロッパでも各地に大きな領土を持っていたので「帝国」とよばれるが、実体はそんな強い国ではなかった。スペイン国内やヨーロッパでの領土は、それぞれ独自の国であって、国王が兼ねていたから帝国と見えたこと。自らは「帝国」とは名乗らなかった。
・国外の領土は、戦争で獲得したのではなく、婚姻によって手に入れたものであった。それらを強権的・統一的に支配し、徴税や徴兵を行えたわけではなかった。新大陸は、当初は植民地でもなかった。
・新大陸からの金銀がスペインの繁栄をもたらしたが、それは政府が抱えた多額の借金(戦争費用)の他国の金融機関への支払いに消えたこと。そして国内の産業振興に使われなかったこと。
・カタルーニャなどにおいて行政機構を整備することには成功したが、国内の農業や産業は、一部を除き振るわなかったこと。
・財政や金融を担っていたユダヤ人を追放したこと。

歴史の見方」。『スペイン帝国の興亡』(邦訳1982年、岩波書店)は、まだ机の上に眠ったままです。