カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

新副知事二人

4月は人事異動の時期です。うれしいことがありました。かつて一緒に仕事をした人が2人も、県の副知事になったのです。一人は岩手県の八重樫幸治・副知事、もう1人は沖縄県の池田竹州・副知事です。

八重樫君は平成2年秋から1年間、池田君は平成3年秋から1年間、当時の自治省財政局交付税課に派遣され、仕事をしてくれました。私は、平成2年春から4年末まで交付税課課長補佐でした。
当時は「昭和の働き方」が最盛期でした。深夜残業や休日出勤も、季節によっては普通でした。ふるさと1億円事業の続きなど、交付税の算定もどんどん増えていきました。岡本課長補佐は新しい物好きで、それらの仕事を次々と引き受けてきたのです。岡本補佐は当時35歳。ばりばり仕事をして、職員にもそれを求める「悪い上司」でした。反省しています。
そのかたわら、彼らを含め関係者に制度と動向を知ってもらうために『地方交付税 仕組と機能』の元となる原稿を書き、彼らが悩まないように執務参考の「涙なしの交付税課勤務」も作っていました。忙しい時期を終えると、「日本の頂上で交付税を考えよう」と、職員たちを富士登山に誘いました。

ともに苦労をした(正確には苦労をかけた)職員が出世するのは、うれしいですね。副知事という職も苦労が多い職ですが、かれらなら上手にやってくれるでしょう。
がんばれ八重樫君、池田君。

西尾勝先生ご逝去

西尾勝先生が、お亡くなりになりました。83歳でした。ご冥福をお祈りします。新聞にも書かれているように、行政学の第一人者、そして地方分権を進めた方です。先生がおられなかったら、地方分権改革は進まなかったでしょう、あるいは違った結果になっていたでしょう。情報公開制度や市民参加にも、力を入れられました。「西尾勝先生の時代の証言者

私は東大法学部で、西尾勝先生に行政学を、塩野宏先生に行政法を学びました。当時20歳だった私は先生方を見て、「遠くの山」「とても登ることのできない、絶壁の高山」と思いました。当時、西尾先生は37歳、塩野先生は44歳でした。「西尾勝先生、分権改革の整理

西尾勝先生から「必要があって、岡本君が書いた『進む三位一体改革』を読んだけど、やたらと長かったね」との「おしかり」をいただきました。たぶん、先生が『地方分権改革』(2007年、東大出版会)を書かれる際のことだと思います。私は「先生、すみません。あれは、関係者向けの実況中継だったんです。一冊の本にまとめるときは、そぎ落とそうと考えていたんですが、時機を失してしまいました」とお詫びしました。そんな思い出もあります。「続・進む三位一体改革

カンボジアPKO

読売新聞「時代の証言者」3月は柳井俊二・元外交官です。22日「高田警視が殉職 衝撃」、23日「派遣継続首相の即断」と、1993年5月のカンボジアPKOについて書かれています。日本が初めて取り組んだ、国連の平和維持活動が、このカンボジアです。

・・・《日本人文民警察官5人と護衛のオランダ兵らが乗った国連の車列が5月4日、何者かに襲われた。岡山県警の高田警部補(2階級特進で警視に)が即死、日本人警察官4人が重軽傷を負った》
5月の大型連休の最中で僕は東京を離れていましたが、一報を受け、慌てて戻りました。軽井沢にいた宮沢喜一首相も即、帰京された。日本はPKOから撤退するのか。重たい空気の中、会議が始まりました・・・
・・・カンボジアでのPKOを続けるべきか、撤退するべきか。その夜、官邸で開かれた緊急会議で、宮沢喜一首相が「柳井君、これはどういう事態だろうか」と口火を切りました。
遺憾なことに犠牲者が出てしまったが、停戦合意が崩れたわけでも、日本人を狙ったわけでもない。撤退する状況にはなっていない――。
こう説明すると、宮沢さんは「私もそう思う。ここはがんばりましょう」とおっしゃった。即断でした。
しかし、世論は撤退の大合唱です。閣僚の中にも引くべきだと主張する人がいたし、警察庁幹部も動揺していた。
《高田警視の葬儀は5月10日、岡山県内でいとなまれた。負傷した4人の警察官は、それぞれの地元で療養することになった》
お葬式は、それは 辛つら かったです。それ以上に参ったのが、派遣警察官の奥さんたちが「引き揚げさせてください」「あと何人死んだらいいんですか」と総理府の私の部屋に何回も来られたことです。心配な気持ちは痛いほどわかる。「一層の安全対策を講じます」と理解を求めるしかありませんでした。
カンボジア各地に点在していた文民警察官をプノンペンに集め、活動を中断。その後、安全策を強化した上で戻ってもらいました。
PKO終了後、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の軍事部門司令官だったジョン・サンダーソン豪州軍中将を日本に招きました。「あの時は心配した。日本が撤収していたら、カンボジアPKOは瓦解していたかもしれない」と振り返っていた・・・

このとき、現地の警察官から事情を聞き、動揺を抑えるために、総理の命により村田敬次郎自治大臣兼国家公安委員長がカンボジアに派遣されました。主任の大臣は河野洋平官房長官ですが、官房長官は日本を離れることができないので、国家公安委員長の村田大臣が行くことになりました。私もお供したのですが、それは慌ただしくとても緊張する出張でした。今も、鮮やかに覚えています。私にとって、政治とは何か、政治家とは何かを考える機会でした。「当時の写真

21日「PKO法早く 焦り」に次のような記述があります。
・・・やきもきする中、PKO協力法は92年6月15日に成立しました。社会党は、全衆院議員が抗議の辞表をとりまとめたり、採決では牛歩したり、徹底抗戦しました。あれが党勢退潮の始まりでしょう・・・

故・竹下亘先生お別れ会

今日3月14日お昼に、故・竹下亘先生のお別れ会(東京プリンスホテル)に行ってきました。岸田総理をはじめ、大勢の政治家の方が来ておられました。

竹下先生は、復興大臣を務められました。私は統括官と事務次官としてお仕えしました。
大臣就任早々にお話があり、「復興事業の中でも、地元自治体負担を求めないと、公平ではないものがあるのではないか」との、お尋ねと指示でした。私も常々考えていたことなので、直ちに案を作りました。関係者と調整して、案を持って、大臣と一緒に自治体に説明に回りました。大臣自ら乗り出していただいたので、この難しい話が進みました。「次官就任

一般道を走る日本一長い路線バス

2月11日の朝日新聞1面子供用クイズ「しつもん!ドラえもん:なら編」は「奈良県と和歌山県を結ぶ一般道では日本一長い路線バスがあるよ。何時間かかるかな」でした。

答は、6時間半。「奈良県橿原市から和歌山県新宮市にかけての169・8キロを走る奈良交通の「八木新宮線」だよ。停留所は168カ所もあるんだ」

私はこの路線に、始点から終点まで乗ったことがあります。高校1年生の15歳の時、52年前のことです。高校総体のサッカー全国大会に、補欠で連れて行ってもらったのです。その帰りに、利用しました。2010年に「十津川村で講演」で書いたことがあります。
当時は、今より道路は悪路だったでしょう。山道にさしかかると、「頭上の棚の荷物を座席に降ろすように」と言われたことを覚えています。
路線図」の一番下の朱色です。「時刻表