投稿者アーカイブ:岡本全勝

連載「公共を創る」執筆状況

2020年8月11日   岡本全勝

定例の、執筆状況報告です。
連載「公共を創る 新たな行政の役割」は、第3章 転換期にある社会 1 日本は大転換期(2)成熟社会の生き方は、に入っています。
「成熟社会の生き方は」は、経済成長を達成し、成熟社会に入った日本が、成熟社会での生き方に転換できていないことを議論します。そこを、大きく3つに分けて書いています。

その1が、豊かさと自由を手に入れた「近代の完成」がもたらす問題です。
豊かさを達成すると、喜びは発散します。そして、心の豊かさは、各人がそれぞれに選び、努力する必要があります。そして、それらは政府が一方的に提供できるものではありません。選択の自由があるということは、自分で選ばなければならないということです。それは負担にもなります。これは、近代後期に入った先進国共通の問題です。連載第51回~第54回です。

その2が、日本に特有な問題です。
憧れていた欧米諸国に肩を並べ、豊かさを達成したと喜びました。それ自体は、喜ばしいことです。ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれ、満足しました。しかし、それは間違いでした。
経済以外の問題が残っていたこと、それまでの手法が使えなくなり社会のしくみや国民の意識を変える必要があるのに、そのままを続けました。それらの問題を、雇用と教育で見ます。日本の驚異的発展を支えた日本型雇用と教育が、成熟社会になって大きな問題を抱えることになったのです。
この分の原稿を提出し、ゲラの形になりました。第55回~第59回。これで、10月中旬まで持ちます。

次は、その3です。家族の形やもてあます時間など、成熟社会での私生活の問題を取り上げます。
毎日暑いし、しばらく余裕ができたので、ぼちぼちと考えますわ。素材は、いろいろと集めてあるので。とはいえ、1か月はすぐに経ちます。

引き継がれる敗戦のトラウマ

2020年8月11日   岡本全勝

8月7日の日経新聞文化欄、インタビュー 戦後日本の行方(2)、作家の赤坂真理さん「現代男性の心に刻まれた「敗戦のトラウマ」とは」から。

・・・世代が替わり、戦争を体験した人々が少なくなっても、心の傷痕は自然には消えない。親から子、子から孫と受け継がれ、さまざまな問題を引き起こしかねない・・・

・・・戦争体験を語るとき、そこには一定のフォーマットがある。「巻き込まれて大変な苦労をした」という被害者の語り、いわば「女性の語り」だ。
男性はあまり戦争を語りたがらない。語るとしても、往々にして被害者の語り口になる。だから戦争を動かしてきた男性の声は埋もれている。戦争は悪いことだったという結論ありきでスタートするので、正直な気持ちが言えないのか。男性のプライドは傷ついているはずだ。
酒に酔ったときなどにその片りんが表れ、眉をひそめたという妻や子の証言はいくつも残っている。男性は意識的にせよ、無意識的にせよ本音を語らず、忘れたふりをするしかなかった。男性のプライドがどこに行くのか、興味がある。
経済戦争と呼ばれた時代にも、先の敗戦の傷が刻まれているのではないか。男性はワーカホリックになり、経済で世界で勝とうとした。バブル期の日本企業が米国を象徴する摩天楼を買収したとき人々が喜んだのは、心の中に敗戦による鬱屈や惨めさを抱えていたからではないか。だから経済が弱くなると体面が保てなくなってしまう・・・

鋭い指摘です。命を賭けて戦った戦争。従軍した兵士たちは、復員後、その体験について語ることは限定されました。公の場で自分たちの功績を語ることはできず、負の面はなおさら語ることを避けました。内面に押し込め、忘れたふりをしたのでしょう。負け戦とはそのようなものです。
さらに、太平洋戦争は、アメリカによる占領と改革で、戦前日本そのものを否定する結果を招きました。軍隊自体を否定されたのです。
男たちは、否定された経験を乗り越えるためにも、全力を経済成長の闘いにつぎ込んだのだと思います。
この項続く

残暑お見舞い、わが家のアサガオ

2020年8月10日   岡本全勝

立秋を過ぎたのに、東京は、毎日暑い日が続いています。9日夜から10日朝にかけて、最低気温が29度でした。寝苦しいはずです。
皆さんのところは、どうですか。
昼間は、何もする気が起きませんね。冷房がありがたいです。冷たいお茶と水のシャワーが気持ちよいです。無理せず、夏休みも取りながら、のんびり過ごしましょう。

プランターのアサガオは、毎朝たくさんの花を咲かせています。当分続きそうです。朝夕の水やりが欠かせません。
孫と一緒に、押し花を造りました。きれいな押し花ができました。

椿は、6月に剪定したのですが、再びチャドクガの来襲にあっています。先週、キョーコさんが、水やりの際に発見。「葉の裏が、ドバイの人工島になっている」。なかなか的確な表現でした。
そのあとも、そこそこ育った毛虫たちや、まだ産みたての卵群も発見されています。

砂原庸介教授、自治体間連携の枠組み必須

2020年8月10日   岡本全勝

8月10日の日経新聞経済教室「新型コロナウィルス 国と地方、浮かんだ課題」は、砂原庸介教授「自治体間連携の枠組み必須」でした。

・・・新型コロナウイルスの感染拡大への対応で注目されるのは、国だけでなく地方自治体、特に知事が最前線に立っていることだ。この感染症は、人々が密集する都市という局所的な単位で問題になる傾向が強い。
だが同様に局所的な対応が求められる地震や水害などの場面では、必ずしも知事が注目されたわけではない。知事にはある程度状況が落ち着いた後で復興をリードする役割が求められ、地元の要望を中央省庁に伝えるものの、縦割り行政の壁で思うような意思決定ができない、というのが見慣れた光景ではなかったか・・・

・・・しかし権限付与だけで組織が積極的に動き出すわけではない。1990年代の政治改革以降の日本政治の変動が新しい動きの底流にあると考えられる。
その一つは国政レベルでの「政治主導」の強まりだ。しばしば指摘されるように第2次安倍政権以降、各省間の調整が後景に退き、首相周辺の政治家・官僚を中心としたトップダウンの意思決定が強調されている。
感染の懸念も後押しする形で知事が直接政治に要求を届けると、それを受け取った大臣も何らかの反応を求められる。要請を受けた政府・与党内の意思決定過程では依然ブラックボックスとされる部分は残るが、知事の側がオープンに発言する以上、受け取った政治の側もオープンに責任を問われる。その結果として、全国知事会での対策を主導した知事からは、国が地方からの要求に対して非常に応答的であり、ときには期待を上回る形で要望が実現したとの評価もなされる。

次に知事を含める形で政治リーダーの競争関係があらわになったことがある。従来は次期首相をうかがう政治家など、政権党内での政治家同士のけん制や競争関係が注目されることが多かったが、今回は感染症対応を直接担うリーダーたちの発言が注目され比較されている。さらに感染者数や医療供給体制に関するデータが出されていることで、比較や格付けすらなされている。互いに全く意識しないのは難しいだろう・・・

・・・問題は早期発見・封じ込めが困難になるほどに感染者が増大していく局面だ。そうなると既に不特定多数の人々が感染しているという前提の下に、自己検疫による外出の自粛や経済活動の抑制、そして緊急事態での医療資源の管理といった「災害モード」が前面に出る。当初の感染者数が少ない状況では、対策があくまでも特定の都道府県・市町村の中で完結することが想定されるのに対し、災害モードでは国や周辺自治体を含めた広範な連携が必要になる。多くの人々が自治体の境界を越えて大都市の中心を利用しているからだ。
3月から5月にかけての感染拡大で、東京・大阪で災害モードの管理を中心的に担ったのは知事だった。知事には、経済活動の抑制や抑制解除の条件などで国と交渉しつつ、近隣の自治体との連携が求められていた。国との間に一定のコンフリクト(摩擦)があったのと同様、自治体間連携にも困難は生じる。日本の大都市圏には自治体を越えて連携するような仕組みが制度化されておらず、指揮系統や情報管理を一元化するのは極めて難しいからだ。

神奈川県・埼玉県や京都府・兵庫県といった大都市圏周辺に位置する府県は違う意味で難しい立場に置かれたと考えられる。これらの府県は大都市と連なる政令指定都市を抱えており、それらは東京・大阪の動向に影響される。他方、府県知事はかねて政令市以外の地域に注力する傾向にあるため、対策としては医療モードをまず重視することになる。そうした配慮が大都市を中心とした対応を遠心化させる可能性もあるだろう・・・

参考「砂原庸介教授 国の政治主導、地方の政治主導

コロナウイルス、相互理解の衰弱促進

2020年8月9日   岡本全勝

8月4日の日経新聞経済教室「アフターコロナを探る」、猪木武徳・大阪大学名誉教授の「相互理解・連携の衰弱一段と」から。
・・・パンデミックが歴史の転換点となりうるとしても、これまでの変化を加速させるのか、あるいは変化の方向を反転させるような力を持つのかを見通すのは難しい。ここでは2月以来、筆者が注目してきた点をいくつか述べるにとどめたい。

まず第1は、感染への恐れから人との直接的な接触が少なくなり、相互理解の努力をしつつ連携(associate)しようとする精神が弱まるのではないかという問題だ。過去四半世紀の技術革新、特に情報通信技術の進展は、わずか一世代で社会生活のスタイルを大きく変えた。それは人と人の直接の接触を減らす方向への変化であった。今回のパンデミックはその傾向をさらに強めると考えられる。
われわれはフェイス・トゥ・フェイスの接触を通して、人とのほどほどの距離感と公共意識を学び取ってきた。だが先端技術による社会的交わりの手段の多くは、人との距離感覚を鈍化させるような不確かで不安定なものが多い。タブレットやスマホでの映像や短い言葉のやり取りが人と人との連携を生むのだろうか。
デモクラシーは本来的に人々を個人主義的にし、バラバラにさせる力を持つ。そこへ「社会的距離を取る」というマナーが加わると、人々の匿名性が高まり公共精神を育む力は弱くなるであろう。公共精神の衰弱は健全なデモクラシーの屋台骨を切り崩しかねない・・・

・・・科学と技術のハードウエアの教育だけでは、社会の改善は望めない。その一つの歴史的根拠として、ジャスティン・リン北京大教授の次の指摘は興味深い。
中国社会では羅針盤、火薬、紙、印刷、鋳鉄技術など様々な発明が生まれた。にもかかわらず、産業革命という大転換は起こらなかった。それは中国が科学という社会システムとしての「文化」を生み出せなかったからだと言う。知的廉直さを厳守する社会システムが存在しない限り、科学という「文化」は生まれない。個別具体的な発明は散発的に現れても、科学という「文化」は中国には形成されなかったとリン教授は指摘する(米経済学者ポール・ローマー氏の引用による)・・・