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政党の役割、選挙制度による違い

昨日の続きです。
日本では、二大政党制と多党制については、17年前の選挙制度改革の際に、大きな議論になりました。当時の衆議院選挙は、中選挙区制でした。同じ党から、複数の候補者と当選者が出ます。たとえば5人区では、自民党が2~3人の当選者を出します。無所属を含め(当選後、自民党になります)それ以上の候補者を立てるのです。そこでは政策の争いでなく、サービスの争いになることが批判されました。
政策の争いにしよう、政党が責任を持つようにしようという意図で、現在の小選挙区制を基本として、比例代表制を組み合わせた制度になりました。
小選挙区制が二大政党制を導き、比例代表制が多党制を導きます。後者は前者に比べ、多様な利害を反映することができますが、政権は不安定になりがちです。多くの場合連立政権にならざるを得ず、その過程で政策協議が必要になります。
すなわち、比例代表制では、国民の中にある多様な利害がそのまま議席に反映され、国会の中、政党間の協議で、利害を集約することになります。他方、二大政党制は、国民にある多様な利害を、2つの政党内で集約させざるを得ません。
その際、政権党は議会で多数を握っているので、政権党内で決まったことは、そのまま国会と内閣の決定になります。国会での議論より、事前の政権党内での議論が重要になるのです。これは自民党が政権党であったときも、同じでした。党内(政策審議会など)での議論、その報道が価値を持ったのです。連立政権の場合やねじれ(参議院で多数を持っていない)の場合は、他党への配慮が必要となります。

政党の役割、国家観による違い

講談社のPR誌「本」2010年7月号、宇野重規東大教授の「二大政党制の終焉?」が、興味深かったです。ハンナ・アレントの政党制論を紹介して、政党の機能を論じておられます。アレントは、イギリスとアメリカの二大政党制と、ヨーロッパ大陸型の多党制を区分します。
・・アレントに言わせれば、二大政党制と多党制の違いは、単に問題の外面的な現れにすぎない。より根本的なのは、政治体制全体における政党の機能、権力との関係、国家における市民の地位であった。
イギリスにおいて二大政党とは、一方は現在権力を握り国家を統治している市民の政治的組織であり、他方は未来において権力を握り国家を統治する市民の政治的組織である。権力と国家は市民の手の届くところにあり、市民は政党に組み入れられることによって、今日の権力と国家を代表するか、あるいは明日の権力と国家を代表するかのいずれかとなる。諸政党の上にそびえるような国家は存在しない。
これに対し、大陸型の政党においては、諸政党の上にあくまで国家が別個に存在する。権力を担うのは国家であって政党ではない。政党政治と国家は疎遠であり、国家権力の中心に立つのはあくまで非党派的な官僚機構である。政党の方も自らを国家全体における部分利益の代表と自覚し、国民全体の利益の代表はすべて国家に委ねてしまう。その上で、権力を自ら構成するという重荷を負わず、自らの特殊利害を議会で表明する役割に徹するのである。すなわち、大陸型の政党は公然と自らを部分利益の代表と認めるが、そこには、政党の上に立つ国家が全体利益を実現するはずであるという前提があった。
イギリスの場合、二大政党は交互に、あくまで一時的にではあるが国家となる。政党が権力を構成する以上、政党とは別途に存在する国家は存在しない。したがって、この制度の下では、政党は特定の社会集団の特殊利害の代表者ではなく、あくまで国全体を代表するべきとされる。結果として、政党はそれ自体が特殊利害の担い手であるあるわけにはいかず、むしろ多様な利害は、各政党の内部において代弁されることになる。そのような利害は党内闘争において表明され、それにしたがって党内に右派と左派が形成される。言い換えれば、政党とは、それ自体が、多様な利害が表明されるべき公的なフォーラムなのである・・
・・このようなアレントの議論が示唆するのは、問題が政党の数ではないということである。より本質的なのは、政党が特殊な利害の代弁者ではなく、多様な利害を調整するためのフォーラムになりえているかどうかである・・(この項続く)

行政の決断と責任

手塚洋輔著『戦後行政の構造とディレンマ -予防接種行政の変遷』(2010年、藤原書店)を読みました。今、勉強している「社会のリスクと行政の対応」の一環です。この本は若手研究者の著作ですが、戦後の予防接種行政を丹念に追うとともに、行政の決断について鋭い分析をしています。
予防接種をした場合に、一定の「副作用」が避けられません。しかし、伝染病が広がっているのに予防接種を行わないと、さらに伝染病が広がります。これをを「不作為過誤」(しないことによる問題)と名付けます。他方、副作用があるのに予防接種を強行すると、副作用被害が出ます。これを「作為過誤」(することによる問題)と名付けます。あちらを立てればこちらが立たない、ジレンマにあるのです。
戦後の早い時期は、副作用を考えずに、予防接種を強制しました。その後、副作用被害が社会問題になると、救済制度をつくりました。そして、現在では、本人や保護者の同意を得る、任意の接種に変わっています。ここに、行政の責任範囲の縮小、行政の責任回避を見るのです。もちろんそこには、天然痘や日本脳炎が、かつてのように猛威をふるわなくなったという状況変化もあります。
この本には、リスクと行政の対応、個人の意識の高まりと行政手法の変化、社会の課題(伝染病予防)の変化と行政の変化、その時間のズレ、個人の責任と行政の責任、国の責任・市役所の責任・医師の責任など、たくさんの論点が含まれています。

ただし、ここでは、リスクという言葉を分別して使わないと、混乱します。すなわち、伝染病が広がることや副作用被害者がたくさん出るというのは、社会のリスクです。一方、行政が不作為過誤や作為過誤をおかすという、判断誤りによって国民から批判を受ける(訴えられる)ことは、組織のリスクです。さらに、国民にとっては、予防接種を受けないと伝染病にかかる恐れがあり、受けると副作用被害に遭うかもしれないというのは、個人のリスクです。
社会のリスクと個人のリスクは、被害に遭う危険性です。他方、組織のリスクは、自らの判断が被害者や国民から批判を受けるという危険性です。その場合、社会や個人から見ると、行政は加害者になります。

憲法の定め、行政権は内閣と地方自治体に

23日の朝日新聞夕刊「窓」は、坪井ゆづる論説委員の「憲法65条のふたり」でした。
・・(菅直人首相が所信表明演説で述べた松下圭一先生が)菅氏のかつての国会質問を「あれが分権のひとつの起点になった」とほめていたのを覚えている。
質疑は1996年の衆院予算委員会であった。菅氏は憲法65条「行政権は、内閣に属する」について、「この行政権の中に自治体の行政権も含まれるのか」とただした。内閣法制局長官は「含まれない」と答えた。新しい解釈だった。これでやっと明治以来の政府に対する自治体の「従属」が終わり、「対等」な関係へと切り替わった。そして分権改革がすすみ始める・・
この答弁と行政権が内閣と地方自治体に属することについては、拙著『新地方自治入門』p22で解説しました。さらに、日本の統治は、まず中央政府と地方政府に垂直に分立され、そして次に水平的に中央政府にあっては三権分立、地方政府にあっては二権分立になっていることは、同じくp276で図示して解説しました。
社会科の授業や憲法の解説で、「日本は三権分立」と教えられるので、地方自治体の位置付けや垂直的分立が、国民には十分理解されていません。

消費者団体訴訟制度1年

18日の読売新聞は、消費者団体訴訟制度ができて1年になるので、その成果を評価していました。不当な契約に対して、被害者に代わって、消費者団体が差し止めを請求できるものです。それまでは団体に権限がなかったので、問題ある業者に問い合わせても、相手にしてもらえないこともあったそうです。それが団体訴権を持つようになったので、悪質業者と強く交渉できるようになり、相手も態度を変えてきたようです。不当行為改善を申し入れた実績や、業者が改善に応じず訴訟になったケースも紹介されています。じわじわと効果が出始めていますが、まだ認知度が低いようです。
新聞が、新しい制度改正を書くのでなく、このように結果を評価するのは、良いことですね。