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結婚式の挨拶・その3

今日は、元部下の結婚式に呼ばれて、行って来ました。7月の沖縄、8月の函館に続き、3か月連続です。今回は、東京でした。
新郎は、被災者生活支援チームや福島復興局で、苦労してくれた若手です。今日も、座を和ませるために笑いを取りつつ、精一杯褒めたので、ご両親に「あそこまで褒めてもらって・・・」と、感激してもらいました。まずはお役目を果たした、ということですね(苦笑)。12月には、お子さんが誕生の予定とか。お幸せに。
来月は予定はないのですが、11月に、次の結婚式に呼んでもらっています。

関西弁ではなく、これが正しい日本語

肝冷斎のページ」を覗いたら、私の悪口を書いていました(9月8日の記事の末尾)。間違いなので、正しておかなければいけません(キッパリ、笑い)。
私が話しているのが、正しい日本語です。東京の人やテレビのニュースで話しているのは、「東京方言」です。使う単語だけでなく、イントネーションとアクセントの位置が違います。と、私は思っています。
(例えば、最後の文を、しゃべり言葉にしてみます。アクセントは、ひとまず無視しましょう。私が言う正しい日本語では、「つこうたはる単語だけやのうて、イントネーションとアクセントの位置が、ちがうのとちゃいますか」です。)
現に私は、その清朝の高官とは違い、日本語の会話で苦労したことがありません。18歳で東京に出てきて以来、もう40年近くになりますが。部下に向かって「それちがうんと、ちゃうか」と言うのと同じように、総理大臣や大臣にも、「ちごうてんのと、ちゃいますか」と申し上げたことがありますが、話は通じています。これまで、お叱りを受けたことはありません。ただし、この文章を話すタイミングは、私なりに気を遣っています(誇張を含んでいるので、笑って読み飛ばしてください)。
もっとも、鹿児島の人や東北地方の人が、地元で友人としゃべるときと、東京でしゃべるときとで、言葉を使い分ける才能は、尊敬しています。

津波避難者と原発事故避難者

福山哲郎著『原発危機 官邸からの証言』(2012年8月、ちくま新書)のp174以下に、「被災者の生活支援」についての記述があります。2011年3月17日に、緊急災害対策本部の下に「被災者生活支援本部」(後にチーム)が作られたこと、3月29日に原子力災害対策本部の下に「原子力被災者生活支援本部」(後にチーム)が作られたことが、書かれています。私が担当したのは、前者の「被災者生活支援本部」です。
2つの支援本部を作らなければならなかった理由は、次の通りです。前者の被災者生活支援本部は、地震・津波であろうと、原発事故からであろうと、避難してきた人を支援しました。逃げてきた人には、どのような理由で逃げてきたか「背番号」は振られていないので、区別はできません。
ところが、私たち支援本部が手の出せない範囲があったのです。それは、原発事故で指示が出され、一般人が立ち入ることが制限された地区です。自宅待機や計画的避難区域になった地域です。
簡単に言うと、第1原発から半径30キロメートル以内は、許可なく立ち入ることができなくなったのです。たくさんの人が残されているのですが、私たちの本部では手が打てないので、別途に原子力被災者生活支援本部を作ってもらいました。

東日本大震災は、地震・津波被害と原発事故の、2つの異なった災害が含まれています。前者は天災であり、後者は事故です。例えば、後者には賠償という行為がありますが、前者にはありません。政府の対策本部も、別の法律に基づき、2つつくられています。
地震・津波被害の場合は、起きた時点で、災害はおおかた終わっています。もちろん、しばらくの間、救助救出作業は続きますが。一方、原発事故の場合は、水素爆発まで時間があり、さらに放射性物質の放出が止まるまで時間がかかりました。災害(事故)は、続いていたのです。
原子力発電所を安全に停止させるという対策とともに、近隣の住民をどのように避難させるか、放射性物質が拡散する範囲の住民にどのように指示を出すかが、大きな課題だったのです。すなわち、「原子炉対策」と「住民対策」という、2つの大きな課題があったのです。
地震と津波は「瞬間型」の災害であり、今回の原発事故は「持続型」の災害です。このほかに、「緩慢型」というリスクもあります。この区別については、拙稿「社会のリスクの変化と行政の役割」第1章注4を参照してください。

通常国会終了

9月7日に、国会が閉会しました。真冬の1月から始まって、春と夏を越し、秋風の吹く9月まで、8か月間の長丁場でした。
復興庁が提出した「福島特別法案」は3月に成立したのですが、その後も復興関連の質疑は続き、なかなか気は抜けませんでした。毎年、通常国会は延長されるのですが、お盆前に終わることが多いのです。9月まで延長されたことは、珍しいです。すると、関係職員は、夏休みをとれなくなります。
この間、質問通告を振り分け、答弁資料をまとめていた国会班の諸君。毎日、朝早くから夜遅く(朝早く)まで、ご苦労さんでした。次の国会が開かれるまで、少しゆっくりしてください。
私は、2004年1月から2006年7月まで、総務省大臣官房総務課長(国会担当)を務め、通常国会を3回経験しました。国会担当職員には何年も経験するベテランがおられますが、課長で通常国会3回は、たぶん私くらいでしょう。
その頃の記録は、このホームページの目次3日本の行政(1)国会の「法律ができるまで」に、残してあります。いま読むと、懐かしいですねえ。たとえば、2006年6月21日の記事。