「それは言い逃れだよ。とにかく謝りなさい」と先生が諭しますが、なんと地仙ちゃんは、「町のみなちゃまー、聞いてくだちゃい、せっかく地仙ちゃんがカミナリちゃんを鍛えてあげようとしたのに、センセイが注意するの。過保護でヒイキなのー」と大声で叫び始めました。なんとかして責任逃れをしようという狙いのようです。
しかし、町のひとびとは忙しいのでしょう、地仙ちゃんがぶうすか騒ぎましても誰も相手にしません。かえって「うるさいコですね」「イナカモノみたいザマすコト」と冷たい視線を浴びせるのでした。
「う~ん、道行くひとびとの同情を引こうという作戦でちたがチッパイでちたね。都会の人たちは冷たくてコワいのね」と地仙ちゃんは失敗を認めました。
「イナカのひとたちがあったかくてヤサしいか、というとまた難しいけどね。都会、というのはもともとはいくつかの「都」の会うところ、という意味なんだ。
「都」は①「者」(正字は点が付く)とオオザトというツクリから成る。「者」という字は、主格を示す助辞に転用されたので「モノ」(主格と成り得るニンゲンとかを指す場合に使うね)と訓じるけど、本来は「堵」(かき・土塁)という字があるように、おマジナイの書付を入れたハコ(曰)を土の中に埋めて、外界との境界にしたものを言うんだ。
ツクリのオオザトはコザトヘンと同じ形象で②「邑」(ユウ)という字。「邑」は、「場所」を示す四角の下に、ひとが正座している姿を描いたもの。普通に人がいるのではなくて正座(古代では「跪座」という)しているところがポイントで、正座は年齢の上のひとの前に座るときの礼儀だったから、「邑」は単なるひとの集まりではなく、社会的な序列のある集団だということがわかる。要するに寄り合いなどの礼儀・秩序を有する集落ということ。
ということで、①の「者」(堵)で境界を設けて外部のマガツモノを排除した②「邑」(村落)を「都」というんだ。「都会」とはそういう「都」が固まって存在している状態を言う。(なお、伝統的には「君主の御霊屋(宗廟)のあるのを都といい、それ以外を邑という」(春秋左伝荘公28年)と区別される)
「都」の対語は「鄙」(ヒ)だけど、この字の左側③(これもヒと読む)は場所を示す四角と、稲束あるいは倉庫の象形から成る。主君から給与される穀物のことを「稟」(ひん)、これを蓄える倉庫のことを「廩」(りん)というのだが、③はこれらと同じ系統の文字で、もともとは王族や臣下の俸禄とされた農村(荘園)を言った。さらにこの③の場所を平面(□)に描いた絵(荘園の地図)を④「図」(ズ)という。
「鄙」は王族や臣下の荘園だから王の直轄地にある「都」の比較の対象になり、卑しいとか度量が狭いとかオロカとかいう意味に使われるようになった。ジブンの意見のことを「鄙見」という(卑見とも書く)。また、シモジモの間という意味にもなり、「鄙諺」といえば「俗に言う」というような意味で「史記」の有名な「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんていうのも鄙諺として紹介されている(蘇秦伝)」
「なるほど。都会は外界との間にカキネを設けて、外部のイナカモノを排除するコワいところなのね。では、都会のひとたちを味方につける作戦はもうやめるの」と、地仙ちゃんも都会の冷酷さに納得したようです。