連載「公共を創る」第153回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第153回「課題の転換を迫る背景」が、発行されました。
前回まで、政府の役割を再定義する前段として、その分類を行いました。ところが社会の新しい課題の多くは、これまでの分類にうまく当てはまりません。

これら新しい課題の多くは個別ばらばらに生じているのではなく、共通した背景と原因を持っているというのが私の分析です。この大きな動きを押さえた上で、場当たり的でない国家の役割と機能の見直しが必要なのです。それは、行政分野の拡大や手法の改善などという微修正では済まず、市民像や公私二元論といったパラダイム(ものの見方、考え方の枠組み)の転換が必要となります。
これまで述べてきた国家の役割の見直しを迫る背景や見直しの方向などを順次、要約します。

まずは、課題の転換を迫る背景です。大きな課題であった貧困からの脱出に成功したのに、なぜ社会に不安が生じているのか。それは、経済発展によって私たちの暮らしが変化したことで、新しい不安が生じたためです。
そして、日本においてこのような不安が顕著なのは、成熟社会に見合った意識への転換が遅れているからです。それは、いくつかの場面で現れています。

「誤解を与えたとすれば申し訳ない」

5月31日の朝日新聞オピニオン欄、松田謙次郎・神戸松蔭女子学院大学教授の「「誤解を与えて申し訳ない」えっ、受け手の問題?」から。

・・・誤解を与えたとすれば申し訳ない――。もはや釈明の言として定着した感のある言葉ですが、耳にするたび、釈然としない思いがこみ上げます。えっ、それってこちらの誤解だったの!? 社会言語学者の松田謙次郎・神戸松蔭女子学院大教授(61)に、謝罪表現について聞きました・・・

・・・政治家や企業トップの謝罪会見で、相変わらず頻繁に登場する言い回しですね。「舌足らずだった」なども含めて、こうした表現を私は「フェイク謝罪」と呼んでいます。差別発言でも軽率な発言でも、問われているのは発言者の考えでありスタンスなのに、表現の稚拙さの問題にすり替えてしまっている。さらには、受け手の側が文字どおり「誤った理解」をしているのであって自分は非難されるいわれはない、という責任転嫁と加害の上塗りにすらなってしまっています。
ホンネをポロリと漏らしてしまったという意味での失言は、どの国の政治家にもあります。その場合、米国などでは、過ちを認めて撤回するか、認めず開き直るかのどちらかのようです。発言内容の問題性に向き合わぬまま、謝罪になっていない謝罪の言葉だけ述べて穏便に済ませようとするのは、極めて日本的な政治戦術だと思います・・・

・・・フェイク謝罪を謝罪表現として定着させないためには、このコミュニケーションを成り立たせない、共犯関係に陥らないことが大切。話し手が使ったら、国民もメディアも即座に「誤解とはどういう意味ですか?」「それなら発言の真意は?」と、ツッコミを入れることを忘れないでください・・・

あらこんなところに××が

オクラホマミキサーのメロディーに乗せて、「あらこんなところに牛肉が。玉ねぎ玉ねぎあったわね。ハッシュドビーフ。こんなに美味しく出来ちゃった」という歌を覚えていますか。
1991年に放映された、ハウス食品ハッシュドビーフの宣伝だそうです。若い人は、知らないか。

冷蔵庫や冷凍庫の中で、肉や野菜などが隠れんぼをするのですよね。乾物置き場では、もっと古いものが隠れんぼをしています。その際の歌は、ちあきなおみさんの「喝采」で、「あれは三年前・・・」です。

かつては、執務机の上で書類が積み上げられて、隠れんぼをしました。最近はパソコンのおかげで、紙の書類は減って、電子媒体としてパソコンの中に保管されます。
紙の場合は、積み上げすぎると見栄えが悪く(整理できない奴だと思われる)、倒れてきたり、上司から注意を受けるので、それ以上は保管できません。ところが、パソコンの中は、かなりの容量があります。冷蔵庫と違い、格段に隠れやすいのです。
みなさんの職場では、隠れんぼをさせないために、どのようにしていますか。

ところで、私も高校で踊ったオクラホマミキサー。近年も学校で行われているのでしょうか。女子校や男子校では、難しいですよね。

性暴力、時代の空気の変化

5月27日の朝日新聞オピニオン欄、田玉恵美・論説委員の「ジャニーズ性加害問題 新聞に欠けていたものは」から。

・・・新聞はなぜ報じてこなかったのか。ジャニーズ事務所の創業者ジャニー喜多川氏による性暴力疑惑に注目が集まるなか、厳しい批判の声が耳に届く・・・
・・・朝日新聞は一連の判決をすべて報じている。ただ、今になって記事を見返すと、扱いが小さすぎるように感じる。一審判決は夕刊の社会面で3段見出しだったが、あとの二つは朝刊社会面のベタ記事だ。記者の署名がついていないため、今となっては誰が記事を書いたのかもよくわからない。事情を知っていそうな同僚たちやOB・OGらにできる限り聞いたが、そもそも文春の記事の内容や裁判の詳細について当時の状況を覚えている人がいなかった。

ただ、小さな記事になった理由について、多くの人が同じ推測をした。このセクハラが性暴力であり、深刻な人権侵害にあたるとの認識が欠落していたことだ。女性への性暴力を90年代から精力的に取材して記事を書いていた記者でも、文春の記事をきちんと読んだという記憶がなかった。「男性が被害者になりうるという感覚を持てていなかった」という。当時の編集幹部の一人は「家庭で子どもの目にも触れる新聞に、性の話題はふさわしくないという古い考えも根強かったと思う」といった。

この疑惑は週刊誌が得意とする「芸能界のゴシップ」であり、新聞が扱う題材ではないと頭ごなしに考えてしまったのではないかと省みる人も多かった。芸能界は「そういうこともある」特殊な世界だと思い込んでいたため、社会的な影響力が大きいジャニーズ事務所も新聞が監視すべき権力のひとつであるとの意識を持てなかった可能性がある。「新聞が威張っていた時代で、週刊誌報道を軽視する雰囲気が今より強かったのは間違いない」と話す当時の中堅幹部もいた・・・

・・・思えば自分は子どものころ、バラエティー番組に出てくる男性の同性愛者を揶揄したキャラクターを見ては大笑いしていた。朝日新聞に入った00年には、横浜市内で父親が家庭内で娘たちに性暴力をふるう事件があったと警察署幹部から聞いて取材し上司に報告したが、「そんな話を新聞に載せられるわけないだろう」と一蹴され、「そんなものか」と特に疑問も持たずに引き下がった。
「昔はそういう時代だった」といえばそれまでだが、新聞記者が「そういう時代」の空気にのみ込まれ、慣れきったままでよかったとはとても言えないだろう。その裏で苦しんでいた人たちがいたのだから・・・

家族と会社、自由な暮らしと必要な覚悟

日本はこの半世紀で経済発展を遂げ、豊かで自由な社会を手に入れました。しかし、社会の仕組みや国民の意識が、その変化に追いついていないことを指摘しています。
ムラや家族、会社は個人を束縛しますが、個人にとっては頼りになるものです。うまくいかないときも、その束縛を言い訳にすることもできます。しかし、自由な社会で自分が選択する場合は、その結果にも責任を持たなければなりません。その覚悟が必要になります。

例えば一人暮らしは、自由で快適な生活ができますが、困ったとき、悩んだときに助けてくれる人がいません。一人暮らしをするには、その覚悟が必要です。そのような孤独に陥らないため、つながりをつくる努力をするのか、一人の不安に耐えられるだけの精神力をつけるのか、いずれかが必要です。
孤独にならないためには、他人とのつきあいが必要ですが、じっとしていてもつきあいはできません。かつては、村での集まりや親類などさまざまな中間集団に否応なく組み込まれたのですが、それも少なくなりました。結婚もまた、かつては世話焼きの人が異性を紹介してくれたりしましたが、現在では自分で探さないと相手は見つかりません。

日本型雇用慣行は、新卒一括採用、年功序列、終身雇用が特徴です。従業員は特定の技能を持って特定の職に就く就職ではなく、白紙の状態で会社に採用され、社内で技能を身につけるという就社です。多くの学生は何になるかを考えず、技能を身につけずつけずに、大学生活を送ります。就社すると、その後の処遇は会社任せになります。希望する部署に就けないと不満をためますが、外部雇用市場がないので転職することは困難です。
日本型雇用慣行は、ムラでの暮らし方を職場に持ち込んだものです。会社任せにせず自分で技能を磨き仕事を見つけるには、前段で述べたと同様に自立の覚悟が必要になります。
一人暮らしの孤独が問題になっているように、今後ジョブ型雇用が広がると、この問題が顕在化するでしょう。