町、「ちょう」か「まち」か

4月28日の朝日新聞夕刊が「「ちょう」or「まち」、あなたの町は 西日本は「ちょう」優勢、境目は長野・山梨」を解説していました。

・・・地方自治体の「町」の読み方は「ちょう」「まち」どちらなのか。転勤や進学で引っ越しが多いこの時期、戸惑うかもしれない。総務省が公表している読み方を元に調べると、中部地方を境に東西で二分される傾向が見えてきた。地域の歴史や文化が影響しているようだ。

NTT東日本と西日本の営業エリアは、東日本は新潟、長野、山梨、神奈川を含む都道県、それ以外は西日本だ。この分けかたに基づくと、東日本は北海道を除けば「まち」の傾向が強く、西日本は「ちょう」が優勢を占めていた。
北海道を除く東日本は265町のうち、「まち」は222の多数派だ。西日本では349のうち「ちょう」は295あり、圧勝だ。北海道は例外的に、森町(もりまち)以外の128町全てが「ちょう」だった。
両方の読み方が共存する長野と山梨の両県が、読み方の境目になっている。全国では「ちょう」が466町、「まち」は277町で、「ちょう」が優勢だ。

なぜ、読み方が東西で分かれているのか。地名の研究をしている日本地図センターの客員研究員・今尾恵介さんは「推測の域を出ない」と前置きした上で、二つの説を挙げる。
一つ目は、現在の市町村制が施行された1889(明治22)年以降、江戸時代に使われた「まち」と区別をするために、「ちょう」と読む自治体が出てきた可能性だ。その後、何らかの理由で、西日本側で「ちょう」が広がった。東日本は、江戸幕府の直轄領が多かった名残で「まち」を維持する自治体が多かった可能性が考えられる。
二つ目は、各都道府県庁が、「まち」か「ちょう」に統一するように、各自治体と調整した可能性だ。その際、近隣の都道府県での読み方に合わせようとしたという説だ。

現存する「町」の多くは、1950年代の「昭和の大合併」と、2000年代初めにピークを迎えた「平成の大合併」によって生まれた。今尾さんは「新しい町をつくるということで、従来の自治体呼称の『まち』と区別したかったのではないか」と話す・・・

連載「公共を創る」第149回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第149回「対立軸の変化」 が、発行されました。
前半は前回の続きで、社会の新しい課題を非営利団体が発見し、その対応に取り組んだのに対し、行政はそれができていないこと。こうした新しい課題を行政の過程に乗せる方法を考えました。

後半は、社会と政治の対立軸の変化を議論しました。社会の変化に従って、対立軸も変化します。ところが、それに気づくことに遅れているのです。かつての、保守と革新、資本家と労働者といった対立軸は過去のものとなりました。
では、現在の対立軸は何か。まずは、正規労働者と非正規労働者の格差でしょう。

外国籍児不就学8千人以上も

4月下旬に各紙が、外国籍の子どもの不就学実態を報道していました。例えば4月23日の朝日新聞「外国籍8千人超、不就学か 小中学校通う年齢 文科省調査

・・・小中学校に通う年齢の外国籍の子どものうち、昨年5月時点で8183人が学校に通っていない可能性があることが、文部科学省の調査でわかった。昨年の調査から約1800人減った。2019年に初めて調査した時の約2万人からは大幅に減ってきているものの、外国籍の子どもが教育を受けられる体制は、まだ不十分な状況にある。
日本では、外国籍の保護者には、子を就学させる義務はない。しかし文科省は、国際人権規約などを踏まえて、希望があれば受け入れるよう、各教育委員会に求めている。

住民基本台帳上で小中学生に当たる外国籍の子どもは13万6923人(昨年5月時点、前年比3613人増)。文科省は全国の市区町村教委に、就学実態の把握状況を聞いた。
外国人学校を含む学校に通っていない子は778人(同129人増)。台帳に記載があり、家庭訪問などをしたが、不在などで就学状況が不明な子は6675人(同1922人減)、台帳に記載があるが、教委が状況を把握していない子は730人(同70人減)だった・・・

話し方のコツ

NHKウエッブニュースに「心をつかむ話し方」が載っています。「(1)伝えたいことがうまく相手に届かない…こんな時はどうしたらいいですか?」「(2)私の話って長すぎる?限られた時間で「自分を伝える」コツ
これは、就職活動中の学生向けの記事ですが、社会人にも役に立ちます。

人前で、あるいは人に向かって話すことは、難しいことです。自分ではうまくしゃべっているつもりなのに、相手に通じていなかったり。自分の話し方の欠点は気がつきませんが、相手の話し方の欠点はよくわかるものです。
学校で本を声に出して読むことは学びましたが、自分の意見を言うこと、相手の話を聞くことは、十分に訓練を受けていません。上達する方法は、場数を踏むことです。引っ込み思案にならず、話してみましょう。

官邸主導の欠点

4月27日の朝日新聞オピニオン欄、宇野重規・東大教授の「論壇時評」から。

・・・最後に問題になるのは、そのような日本の外交・安全保障戦略を日本国内でいかに構想するかである。日本にとって死活的な判断が、十分な国民的議論を欠いたまま決定されることはあってはならない。多様な選択肢を前提に、政治的に分厚い議論が不可欠である。はたしてそのような仕組みが日本に存在するのか。

不安にさせるのは、行政学者の牧原出が指摘する、官邸官僚が生み出す「無責任体制」である。本来の官邸主導とは、あくまで首相や大臣が能動的に政策革新を図るものである。ところが第2次安倍政権において現実に進んだのは、大臣不在のまま、「首相の意向」を盾とする官邸官僚が主導的役割をはたす事態であった。結局は誰も責任を取らないまま、各省庁の間に無気力が蔓延したという。日本外交の構想力が問われる現在、責任ある政治的決定のメカニズムの再建が不可欠であろう・・・