上司はおおらかになる

上に立つ人ほど、部下に厳しく当たらない、おおらかであるようです。もちろん例外もありますが。生まれながらに、おおらかな人もいます、他方で、努力して身につける人もいます。なぜか。考えてみました。いくつか理由が思い当たります。

1 そのような人が出世するという「結果論」
2 さまざまな経験をして、おおらかになるという「経験説」
3 忙しくて、細かいことを言っておられないという「多忙説」
4 部下に厳しく当たっても見込みがないという「達観説」

3の多忙説は、説明が必要でしょう。上に行くほど、たくさんの仕事、たくさんの悩み事を抱えて、小さなことにかまっていられなくなります。すると、部下の言動が気にはなるのですが、かまわずに、ほかの重要なことに時間を割くのです。その判断ができず、細かいことに力を入れる上司もいます。忙しいので、逆に部下を感情のはけ口にする上司もいます。よい上司にはなれませんね。

4の達観説は、実は冷酷です。「この職員は何を言っても無駄だ」と、部下を見限るのです。

G7への市民社会の働きかけ

3月30日の朝日新聞オピニオン欄、三浦まり・上智大学教授の「G7へ市民社会が作るアツ」から。

・・・今年のG7サミット(主要7カ国首脳会議)はなんだか騒がしい。7年前の伊勢志摩サミットでは今回の広島サミットほどには市民社会の関与は見えなかったように思う。首脳同士が直接会って信頼醸成を行うことの意義が強調されるサミットだが、G7にしてもG20(主要20カ国・地域)にしても、昨今のグローバルガバナンスでは市民社会との対話が重視されており、市民社会としても政府に対して効果的に発言できる機会となっている。

市民社会が国際的な連携で作り出せる圧力は、外国政府が持ちうる力よりは弱いかもしれないが、それでも人権や平和、気候変動など、さまざまな分野で市民社会がアツを生み出し、政府の決定に影響力を持ってきた。これは外からの圧力というよりも、国内状況を改善したいと願う市民が海外の市民と協力しながら作り出すもので、実際には内圧あってこそ、外圧が梃子になりうる。

広島サミットが日本の市民社会にとって強く意識されるのは、LGBTQ+(性的少数者)の権利や安全、性と生殖に関する健康と権利、性暴力根絶などについて国内法が未整備の状況が続いており、日本とG6を比較することで内圧を高める戦略が一定の効果を持つからだ。とりわけ、ロシアに対して結束を高めるG7は自由、民主主義、人権を高らかに謳う。日本がその一員を占めるのであれば、国内で人権分野の法整備が進まない状況を放置できなくなる。対外アピールを狙った政策転換が打ち出されるのではとの期待が芽生える・・・

古代東北太平洋岸地帯の文化

近江俊秀著『海から読み解く日本古代史 太平洋の海上交通』(2020年、朝日選書)を読みました。
石巻市の五松山洞窟から、古墳時代の墓が見つかりました。発掘調査で、北方系と関東系の人骨が一緒に再葬されていました。また、大和政権からと思われる遺物などが見つかりました。北と南の文化が共存していたのです。大和朝廷側の史書では、蝦夷を軍事力で征服したと書かれていますが、そのような簡単なものではなさそうです。

この本は、太平洋岸を関東から三陸まで、どのように交易があり、文化は交流したか。史書には多く書かれていない時代と地域を、発掘調査、神社や古墳などで、推理します。
奈良で育った私には、知らないことが多かったです。東日本大震災復興に従事したので、土地勘が身について、出てくる場所はわかりやすかったです。

谷三山

谷三山って、知っていますか。日経新聞文化面連載小説「陥穽 陸奥宗光の青春」の4月6日に登場しました。子どもの陸奥宗光が、大和五條(代官所がありました)に学びに通っていたくだりで出てきます。
・・・森鉄之助は大和・高市郡の人で、大和・八木の高名な儒者谷三山に学ぶ・・・

すっかり忘れていました。子どもの頃に「偉い人がいた」と、その名を教わりました。
「江戸時代の後期の儒者。享和2年(1802年)生まれ。慶応3年(1867年)没。通称 新助、のちに昌平と改める。三山は号、別号は、淡庵、淡斎、釈斎。
八木村(現在の八木町)の米屋などを営んだ商家倉橋屋に生まれましたが、幼い頃目と耳を患い、聴力を失いました。ある時、兄の厚亭から小説の無稽を揶揄され、発奮して三山は、独学で正史経学に励み、兄とともに京都に遊学し、猪飼敬所(いかい けいしょ)に学びました。その後、私塾「興譲館」を開き多くの師弟を指導していましたが、これが高取藩に認められ士籍を与えられ藩儒となり、教学を広め、尊王攘夷を説きました。」(橿原市の紹介)。
森鉄之助も高市郡の人だそうですが、知りません。

ついでに、八木の歴史
八木町は、高市郡明日香村の隣の橿原市の中心地です。私にとっては、まぶしい町、商店街でした。スーパーマーケットも本屋もあったのです。村からはバスが通っていて、30分の道のりでした。そのバスに乗って、八木中学校に通いました。その学校は、現在では移転しています。