文系の発想、理系の発想

実用の学と説明の学」の続きです。自らの反省でもあります。
私が大学で習った法学は、実定法の解釈学です。実際の事案に現行法令に当てはめて結論を出します。どの条文に当てはまるかです。ところが現実には、法律が想定していない事態が起きます。その場合も、なんとかして現行法令に当てはめることができないか、いろいろと屁理屈を考えるのです。
「法律に書いていないことが起きた場合は、新しい法律をつくる」という発想がありませんでした。立法学は学ばなかったのです。法律を変えずに解釈で切り抜ける代表例は、憲法9条でしょう。

「実用の学と説明の学」で、社会学の多くは分析にとどまっていて提言が少ないこと、「批評の学」にとどまって「実用の学」になっていないと批判しましたが、法学も政治学も解釈と批評にとどまっていると、同じことが言えます。

かつて「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」という発言を紹介したことがあります。「過去の分析と未来の創造と:官僚の限界

公務員が新しい事態に直面して、「法律に書いていません」「予算がありません」「前例がありません」と発言するのは、「新しいことに関わるのは面倒くさい」という性癖とともに、このような解釈学思考に染まっているからかもしれません。行政には「過去との対話」でなく「未来との対話」が重要なのです。「過去との対話と未来との対話

アメリカ政府への信頼度の低下

11月18日の日経新聞経済教室は、渡辺靖・慶応義塾大学教授の「トランプ氏前面に反発強く 中間選挙後の米国」でした。
今回のアメリカの中間選挙については、共和党の大勝利という事前予測が外れました。その点についてはたくさんの評論がなされています。この記事で注目したのは、それとは別の、政府への信頼度の低下です。記事に1958年から2022年までのアメリカ政府への信頼度が図になって載っています。
当初70%を超えていた信頼度は、60年代と70年代に急速に低下し、20%台になります。80年代は40%台に復活しましたが、90年代初頭には19%に低下します。2000年初めに54%に急上昇しますが、その後低下して現在は20%程度です。
この要因には、政治や行政の要因だけでなく、アメリカ経済や国力の好不調があると思われますが、大きな問題です。日本も同様なことが指摘できるでしょう。

・・・もっとも、米国の歴史は分断と対立の歴史であり、合衆国憲法の前文に記された「より完全な連邦」は一度も実現したことがない。独立や憲法制定を巡っても激しい政争があった。さらに言えば、建国の指導者らは三権を分立し、さらに議会を二院に分割し、州の権利を拡大することで、いわば分断や対立を意図的にビルトインしたともいえる。「決められない政治」によって権力者や世論の暴走を防ごうとしたわけだ。
ただ、だからといって、今日の状況を「よくある話」と片付けてよいとは思えない。例えば公民権運動やベトナム反戦が盛んだった1960年代は騒乱の時代でもあったが、政府への信頼度は高く、64年には77%を記録している。その後、01年の米同時テロなどの有事の時期を除き、総じて右肩下がりを続け、近年は20%前後の歴史的低水準にとどまっている。

長年、米政治をけん引してきた民主・共和両党の主流派(中道派)は信用を失い、「反ワシントン」を掲げるアウトサイダー候補が「変革」の担い手として待望されるようになった。この点はオバマ氏もトランプ氏も同じで、いわば政治不信の時代の産物といえる。「国民の和合」を求めたオバマ氏の試みは挫折し、国民を「我々」と「やつら」に分けたトランプ氏の試みは分断を加速させた。
コロナ禍のような国民の生命(いのち)と財産(くらし)を脅かす国家的危機を前にしてもワシントンが求心力を取り戻すことはなかった。民主党では左バネ、共和党では右バネが強まるなど、主流派と争うポピュリズム(反エリート主義)が遠心力を増し、両党のアイデンティティーを揺さぶっている。米国が分断と対立を繰り返してきたことは確かだが、近年の状況は質的により深刻に思える。
バイデン氏は半世紀にわたり国政に携わり、ワシントン政治を熟知している大統領だ。同氏がどこまで政治に対する信用や主流派の求心力を回復できるか・・・

「曾子三省」

11月28日の肝冷斎「「論語」より「曾子三省」」に、「講演の準備5」を取り上げてもらいました。

「論語」を読み始めると、その冒頭の第四章に「曾子三省」の章がございます。
曾子曰、吾日三省吾身。為人謀而不忠乎、与朋友交而不信乎、伝不習乎。
曾子曰く、吾、日に吾が身を三省す。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、伝不習か。
曾先生がおっしゃった。「わしは、毎日自分のことを「三省」するんじゃ。他人のために相談にのってまごころを尽くしただろうか、友人たちとの付き合いで信用を失わなかっただろうか、「伝不習」しなかったか。

このあと、難しい説明が続きます。関係の部分は、「伝不習乎」です。
これをどう訓ずるのか。古来、二つの解釈があるそうです。
1.伝え(られ)て習わざるか。 ・・・教えてもらったのに習熟していないのではないか。
2.習わざるを伝えしか。 ・・・(教えてもらって)習熟していないことを教えてしまったのではないか。

私の、講演を終えた後に、その日の出来を振り返えることを、これに当てはめてくださったのです。

韓国、ひとりご飯

11月19日の朝日新聞夕刊に「「悪くないね」 韓国、ひとりご飯の風景 友達がいない人…変わるイメージ」が載っていました。

・・・韓国ではかつて、ひとりでご飯を食べる人は良くないイメージで見られがちだった。「友達がいない人」といった具合に。でも最近は、ずいぶんと様子が変わってきている。

「おひとりさま対応」を売りに店舗を増やしている外食チェーンを、ソウル南部に訪ねた。
韓国で親しまれる「ポッサム」という料理。ゆでた豚肉を、キムチや他の野菜などと食べる。通常は2人分以上からの料理だが、その店先にはこんな表示があった。「1人ポッサム その感動をめざして」
店内にはカウンター席が並ぶ。お昼時、大学生や会社員らが訪れ、定番の「1人ポッサム」を注文していた。スマホ画面に目をやるなどしながら黙々と食事を終え、ささっと出て行く。
就職活動中の金俊怜さん(25)は時々訪れる。「友達がいない人」などと思われないよう、ひとりでの食事は避ける友人らが少なくなかったが、最近はそういうイメージは薄れたと感じる。「他の人の意見に縛られず、食べたいものを食べて、食事に集中できる。友達や家族との食事もいいけれど、自分だけで食べる時間も悪くないですね」
会社員の男性(28)は「前は恥ずかしいイメージもあったけれど、最近はひとりで食べられる店が増えてきた」とうれしそうだ。

韓国では「食事はされましたか」があいさつの言葉になるほどで、一緒に食事をすることで人と人との距離がぐっと近づく。その一方で、ひとりで食事をする人には否定的なイメージがついてまわった。それが変わってきたのはなぜか。
韓国社会の構造的な変化が背景の一つとみられる。少子化が深刻で核家族化も進み、単身世帯が3割以上を占めるようにもなった。
「1人ポッサム」の朴さんは言う。「親の世代は大家族で『みんなで一緒に』という文化だったが、我々の世代は単身世帯が増えて変わった。『個人化』が非常に進んでいる」
「個人化」は、若い世代を象徴するキーワードだと言えそうだ。経済学者で韓国・中央大教授の李正熙さんは「若い世代が就職時に強く望むのは時間通りの退勤。それだけ、自分の時間を大事にしたいということです」と指摘し、ホンパプの一般化の背景に、特に若い世代の価値観の大きな変化を読み取る。

韓国では飲み会で、ビールに焼酎などを混ぜて飲む「爆弾酒」で盛り上がるのが定番だったが、最近はそうしたスタイルになじめない若者も少なくない。50代の公務員は「私が若いころは先輩に『今日はいくぞ』と言われたら、『はい』以外の返事はなかった。今の若い世代にそんな考えは通じません」・・・

最後の段落は、日本と同様ですね。

根津美術館、将軍家の襖絵展

キョーコさんのお供をして、根津美術館の「将軍家の襖絵展」に、行ってきました。将軍家と言っても、室町幕府、足利将軍家です。
その屋敷のふすま絵は残っていませんが、文献から復元した姿を見せてくれます。各部屋に何が書かれていたかが記録されていて(これもすごいことです)、それに近いと思われる現存する絵を展示してあるのです。中国への憧れ、水墨画が主流だったことが分かります。安土桃山時代を経て、このような水墨画と、絢爛たるふすま絵とが描かれるようになったのですね。
もっとも、ロウソクや燭台の光では、私たちが見るようには明るくはなかったでしょう。
展覧会は12月4日までです。

根津美術館の庭は、紅葉の真っ盛りで、たくさんの人で賑わっていました。外国からと思われる人も多かったです。都会の真ん中とは思えない、すてきな場所です。
ただし、庭のあちこちに、日本と東洋の石造や金銅製の古美術品が点在しているのは、よいと思う人と、過剰だと思う人がいるでしょう。