白黒をつける、折り合いをつける

世の中には、意見が対立する場合や、利害が反する場合があります。あちらを立てれば、こちらが立たない場合です。

新型コロナ感染対策でも、人の動きを制限すれば拡大を防ぐことができますが、それは社会活動や経済活動を止めてしまいます。ウイルスが強毒性で感染すれば直ちに重症化するのなら、厳しい行動制限をするべきでしょう。国民もそれを支持すると思います。しかし、それほどの強毒性でない場合に、どこまで行動制限をするかが議論になります。
厳しく外出を制限する案とふだん通りに生活をする案と、どちらを取るのではなく、その中間で折り合いを付ける必要が出てきます。

答が白黒の二つに分かれている場合と、右端は白く左端が黒で境目がなく次第に色が濃くなっている場合があります。
時代劇にあるような善人(庶民)と悪人(越後屋と悪代官)がはっきりしている場合は分かりやすく、最後に悪人がやっつけられると、見ている人もすっきりします。数学の問題で足し算や引き算も正解と間違いがはっきりしていて、答は100点か0点かです。
ところが、私たちの日常生活は、白黒がはっきりしている場合は少なく、どこかで折り合いをつけなければならない場合が多いのです。正解は一つに決まりません。

そのような演劇を見慣れている人は、早く結論を求め、白黒を付けることを望みます。込み入った事情を説明すると、イライラします。また、学校での正解がある勉強になれている人は、正解があると思い込みます。
残念ながら、現実世界はそうなっていません。だから、分かりやすい演劇が好まれ、明快な学問が好まれるのでしょう。

「今」を闘う7人の外相

4月3日の朝日新聞「日曜に想う」は、曽我豪・編集委員の「「今」を闘う7人の外相」でした。

・・・将軍たちはひとつ前の戦争を戦う、という。勝利を約束するはずの戦略は既に古びて、逆に時流を見誤る。日本の満州事変もドイツの2度の世界大戦も米国のベトナム戦争も、彼我の戦力差に基づく戦略への過信が国策を誤らせた。
ウクライナ侵攻において古い戦争を起こした「将軍」は、69歳のプーチン・ロシア大統領に他ならない。軍事力により版図拡大を図った国家戦略が、ネットにより国境を超えて連帯した国際社会の反抗を蹴散らせる時代ではなかった・・・
・・・他方、前ではない今の戦略を持ち得たのは例えば、G7(主要7カ国)の外相会合に集った政治家たちだったろう。
年齢を順に記せば、フランス74、日本61、米国59、英国46、カナダ43、ドイツ41、イタリア35。アラフォー世代が目立ち、女性も英加独で3人いる。2番目に年かさの林芳正外相は証言する。
「初対面でまずはSNSのフォロワー数を尋ね合う世代だ。ただ、ここで権威主義国家の横暴を許せば取り返しがつかない、民主主義国家の知恵を出すのは今だ、という共通のリアリズムがある」
確かに、バイデン米政権によるロシア軍の機密情報の積極開示にせよ、国際決済網からロシアの銀行を締め出す経済制裁にせよ、前例のない対抗措置はいずれも「今」を意識した知恵の産物だった・・・

・・・思えば、ほんの少し前まで民主主義はその「使い勝手の悪さ」ばかりが強調されたのではなかったか。
ともすれば、合意形成に時間と労力がかかり過ぎ、民意と隔絶すると政治不信が、民意に迎合すればポピュリズムが危ぶまれた。コロナ禍を巡っては権威主義国家の優位性が指摘され、中国はそれを大国への道のよりどころとする。
それもまた、ひとつ前の古い思い込みに出来るか。非軍事の連帯を紛争解決のモデルとする道は、民主主義の優位性を固め直す道でもある。平均年齢約51歳の7人の外相はその闘いの最中にいる・・・

判断の4類型

私たちが物事を決める場合に、いくつかの手法があります。よく考えて決めたとか、好き嫌いで決めたとかです。

さまざまな手法があるのですが、次の4つに分類すると、わかりやすいのではないでしょうか。
1理性(弁別)=冷静に考え、自分が正しいと思う、あるいは社会で正しいと思われることを選ぶ。
2欲望(利害)=欲得を考え、自分に得になることを選ぶ。
3感情(好悪)=好き嫌いで選ぶ。
4慣習(惰性)=いつもと同じものを選ぶ。

私は、仕事では1を心がけていますが、ビールを選ぶ場合は4です。俳優などは3で、ものを買うときは2です。毎日の生活で一つ一つ1を使っていては、時間がかかります。多くの人は、たいがいは4で済ませています。

重要なのは、どの局面でどの判断類型を使うかです。
仕事の際に2を使うと、下品になります。3を使うと、よい組織になりません。時に、それを間違う人がいます。

コロナ対策に見るリスクコミュニケーション

3月26日の朝日新聞夕刊、福田充・日本大学危機管理学部教授へのインタビュー「危機に強い社会になるには」から。

こうした研究を始めた契機は1995年。東大大学院で、メディア研究をしていたころにさかのぼる。
「修士論文を出した直後に、故郷で阪神大震災がおき、調査に入りました。初動対応がもっとうまくいけば助かった命があったのではないか。被災地で怒りをおぼえました。3月には地下鉄サリン事件があり、テロ対策の研究の貧弱さを知り、人の命を救う研究をしようと。それまでのテーマを捨てました」
日本では当時、「危機管理」の研究はタブー視されていた。「テロや犯罪対策は国民を監視するもの、有事を想定するとは戦争ができる国にするためか」と批判された。東大を離れるまでひっそりと研究を続けた。その後、新型インフルエンザが流行し、感染症がテーマに加わった。

新型コロナ発生から3年目。日本の対策は、戦略不在で場当たり的だったとみている。
「飲食店への時短要請や外出自粛など、短期的でミクロな『戦術』しか示せていません。必要なのは長期的な『戦略』なのに、政府は対策の道筋やゴールを示していません」
2012年には、緊急事態宣言もだせる新型インフルエンザ等対策特別措置法ができた。準備がなかったわけではない。
「しかし地方自治体や企業、病院などに知識や議論が共有されていなかった。日本のコロナ対策が比較的うまくいったとされるのは、国民の絶大な協力があったからだ」

その一方でこの2年間、社会全体のために個人の私権制限がどこまで許されるか、犠牲はどこまで許容すべきか。こうした議論はほとんど進まなかった。
「同調圧力というか、空気に支配される国民性のおかげで、マスクを着けるとか外出自粛といった基本対策は進みました。でも個人が考え、意見を出し合い『ここまですべきだ』と決めるリスコミはできていません。これでは民主主義の国といえません。皆で議論し、納得したところで線引きするのが答えで、結論になるのです」

国民の顔色をうかがい、議論の提案を政府が避けてきたとも解釈できる。
「リスクを考えることを避ける国民性のため、合意形成が簡単にできないと政府にはわかっている。支持率が下がるならやめておこうとなる。でもここを打破しなければならない。危機管理できる社会になれば、近代化の階段を上れる。リスコミの民主主義化が必要なのです」

曖昧な表現

先日読んでいた文章に「現在絶滅していない動物も・・・」という表現がありました。???
まだ絶滅してはいなくて、今も存在するのか。すでに絶滅して、現在は存在しないのか。どちらだろうかと考えました。この文章は「現在絶滅していない動物もいずれ絶滅する」と続くので、前者だと分かります。

原稿を書いていて、「政府の出番が少なくてもよい社会が生まれます」という文章を書きました。これでは、「出番が少なくてもよい」のか、「良い社会」なのか、曖昧ですね。

しばしば悩むのが、「私はあの人のように急がない」です。私は急がないとして、あの人は急ぐのか、あの人も急がないのか。
「毎日新聞を読む」は、毎日欠かさず新聞を読むのか、(朝日新聞でなく)毎日新聞を読んでいるのでしょうか。
「会議机の書類を片付けなくてよいでしょうか」と聞いて、「いいよ」と答えられたら、片付けるのでしょうか、放っておいてよいでしょうか。

話している本人は、このあいまいさに気がつかないものです。私の原稿も、右筆や校閲が指摘して手を入れてくれて、自分の文章のあいまいさに気がつくことがあります。