6月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思さんの「死生観への郷愁」。本論と外れたところですが、コロナウイルス緊急事態時の人権制約についての主張を紹介します。
・・・17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意志で国家に委ねたことになる。こうしてホッブズは世俗世界から宗教を追放した。超自然的な存在によるこころの安寧やたましいの安らぎなどというものは無用の長物となった。
かくて、コロナのような感染症のパンデミックにおいては、国家が前面に登場することになる。われわれ自身でさえも、おのれの生死に対する責任の主体ではなくなるのだ。国民の全体が、たとえ0・02%の確率であれ、生命の危険にさらされている場合には、その生死に責任をもつのは政府なのである。それが「国民」との契約であった。ドイツの法学者カール・シュミットのいう例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。これが、ホッブズから始まる近代国家の論理である。
そして、いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく「緊急事態宣言」を出すよう要求していたのである。ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党さえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。
これを指して、日本の世論もメディアも野党も、なかなかしっかりと近代国家の論理を理解している、などというべきであろうか。私にはそうは思えない。今回の緊急事態宣言は、もちろん一時的なものであり、しかも私権の法的制限を含まない「自粛要請」であった。しかし、真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとはしないからである。
そうだとすれば、政府はもっと強力な権力を発揮してくれ、という世論の要求も、近代国家の論理によるというよりも、ほとんど生命の危険にさらされた経験のない戦後の平和的風潮の中で生じた一種のパニック精神のなすところだったと見当をつけたくなる。いざという時には国が何とかしてくれる、というわけである。国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私は思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう・・・