『科学の社会史』

コロナウイルス外出自粛の時期に、紀伊国屋新宿本店も閉店していた時期があり、書斎の本の山を物色しました。連載執筆のために読まなければならない本や、読みかけの本がたくさんあるのに、ほかの本に手を出す悪い癖です。
いや~、いろいろ出てきました。「そういえば、この本は××の時に買ったな」のほかに、「こんな本も買ったのだ。なぜだろう」と思うものまであります。いつもながら、反省。
その一つを読み終えました。

古川安著『科学の社会史 ルネサンスから20世紀まで』(2018年、ちくま学芸文庫)。勉強になりました。書名の通りの内容です。発明や発明家の歴史ではありません。科学と技術が社会をどう変えたか、また社会が科学と技術をどのように求め変えたかが書かれています。社会史です。
この点、哲学史や思想史、社会学史の多くは、偉人の思想の歴史であり、社会との関係(社会をどう変えたか、社会はなぜそれを求めたか)が書かれていません。「日本思想史

これだけの長い歴史、科学と社会の関係という大きな主題を、この大きさの本にまとめるのは、難しいことです。長々と書くより、短くする方が難しいのです。
西欧の近代の科学技術は普遍的な性格を持っているのに、各国がその発展に力を入れます。第6章以下に、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカが順に取り上げられます。そしてそれが行き着いた先は、二つの大戦での国を挙げての兵器開発でした。残念ながら、日本は取り上げられていません。
そして、20世紀後半になって、科学の発展について疑問が生まれます。このままで良いのか。それは、原爆であり、公害や自然破壊です。また、遺伝子工学による生命倫理の問題もあります。
研究者、企業、国家によって、科学技術の研究と発展は、止まることがありません。そして、それぞれの研究は、真理を探求するため、社会をよくするために行われます。しかし、個別の研究を勝手に進めていて良いのか。研究者に任せるだけでなく、社会や政治による制御が必要になりました。

福島勤務再開

コロナウイルスでの移動制限が緩和され、今日から、福島での勤務を再開しました。久しぶりの福島は、新鮮さがあります。
新幹線の車窓からは、雨に煙る関東平野、緑の山々、稲の苗が育って一面青々とした田んぼなど、懐かしい風景を見ることができました。
今日は早速、被災地へ。山の緑の中に、ヤマボウシの白い花がきれいでした。

2か月半、会ってなかった人たちに会うと、何かしら懐かしいです。電子メール、電話、テレビ会議では、やりとりしていたのですが、実際に会うのは違います。

久しぶりの出張で、持っていくもの、ホテルでの行動など、かつては身体で覚えていたことを思い出しつつ、やっています。事務所の入り口の暗証番号を忘れていたり・・・暮らしの型を取り戻すには、少々時間がかかりそうです。

責任を取る方法

責任を果たすこと、特に失敗してからの責任の取り方について考えています。きっかけは、原発事故です。事故を起こした責任、防げなかった東京電力と国(経済産業省)の責任とは何かです。とんでもないことを起こしてしまった後の、責任をどう果たすか、責任をどう取るかです。また、私自身がこれまで、組織の失敗や不祥事で何度もお詫びをしてきたので、その整理の意味もあります。

「責任」という言葉には、さまざまな意味や使い方があって、そう簡単ではないようです。いくつか本を当たりましたが、しっくりくるものがありません。責任とは何かを論じていて、責任の取り方は書いてありません。哲学者と実務家と関心の違いです。私の問題関心から、ひとまず次のように理解しました。

1 責任には、失敗を起こす前と、失敗した後の2種類がある。また、失敗した後も、事態が進行中と事態が終了した後の2種類があります。
・事前の責任とは、その人や組織が背負っている任務で、その義務を果たすことです。「責任を負う」「責任を果たす」という場合です。
・失敗した際(事態が進行中)の責任は、被害拡大を食い止めること、被害者を助けること、事態を公表することなどです。この場合も、「責任を果たす」と言って良いでしょう。
・事後の責任は、失敗をした場合の後処理です。罪を認め、謝ることです。民事責任や刑事責任に問われます。このほか、原因究明や再発防止策をとることもあります。そして、職を辞する、組織を解体するようなこともあります。
この場合、責任は「責任を問う」「責任を認める」「責任を取る」というように使われます。

(備考)自己責任
「自己責任」という言葉があります。ここで述べているのは、被害者や社会に対する責任ですが、自己責任は、自ら招いた結果を自分で引き受けることです。株取引で損を出した、危険なところに行ってけがをした、努力をしなかったことで楽しい人生を送ることができなかったなどです。
この場合は、他人や社会に損害を与えたというより、自分が損をしたことや、他者からの支援を受けることができない場合です。
これも事前と事後に分けるなら、誠実に生きることで社会に対する責任を果たしていることが、事前の責任です。株取引で損をした(他者には迷惑をかけていない)、楽しい世活を遅れなかったこと(それで社会に迷惑をかけたら自己責任だけではありません)が、事後の責任です。「身から出たさび」「自業自得」です。参考「自己責任の時代
この項続く

発掘された日本列島展2020

今年も行ってきました、「発掘された日本列島展」。毎年、この企画を楽しみにしています。
今年はコロナウイルスの影響で、どうなるのだろうと心配していました。関係者の方々が苦労して、開催にこぎ着けたのでしょうね。展示の仕方がやや淡泊に見えたのは、そのせいでしょう。でも、開催できただけでも、大したものです。もっとも、例年ならある、専門家による解説はないようです。密になるから、避けたのでしょう。
今年も、さまざまな発掘品が並んでいます。また、各地の遺跡を紹介する動画も放映しています。1本ずつは短いのですが、たくさん見ていると、時間がかかります。

江戸東京博物館では「奇才―江戸絵画の冒険者たち―」も開催していたので、見てきました。これも、なかなかの品揃えでした。コロナがなければ、たくさんの人が押しかけたでしょうに。今日まででした。作った立派な図録は、売れ残るのでしょうか。

観覧者はそれなりにいましたが、密になるほどではなく、見やすかったです。また、色とりどりの柄物マスクをしている女性が目立ちました。展覧会に来る人たちですからね。

「等」、明確にするのかあいまいにするのか

6月17日の朝日新聞オピニオン欄、「「等」の正体」が、良い視点から「等」という言葉の使い方を取り上げていました。厳密さを求めてつける「等」が、あいまいになるという逆機能を持っていることです。
詳しくは原文を読んでいただくとして、吉田利宏・元衆議院法制局参事の発言「恣意的解釈、ルールが防ぐ」の一部を紹介します。

・・・ 私は衆議院法制局に15年勤め、主に議員立法をつくる際の補佐をしてきました。最初に自分が書いた法案を見せた時の上司の言葉を今でもよく覚えています。「ここにある『等』は何を指しますか?」
それまで日常的に使ってきた「等」は、「それ以外のさまざま」をひっくるめる言葉でしたから、具体的に何を指すか、と聞かれてびっくりしました。法令用語としての「等」は厳密に使わないといけない、と知りました。
具体的に言えば、「等」の前にはもっとも代表的なものを置くこと、「等」で省略されるものを必ず全て列挙できること、これが法文で「等」を使うための条件なのです。

これと正反対の、あいまいで便利な「等」が今、あふれています。会社のコンプライアンスの必要性が叫ばれた頃から、ビジネス文書で増えてきました。まだ立場や方針が完全に一致していない同士でも、要所に「等」をつけておくと、全体として「同じ方向を向いている」という雰囲気が出るのかもしれません。
行政の世界もそうです。コロナ危機は誰にも想定外の事態だったはずです。まずは選択幅を広く取っておこうと、自粛要請の予定対象として「遊興施設等」「劇場施設等」という表現が使われました。政治家の場合は、互いに主義や立場が違う者同士が歩み寄るため、「社会情勢等の変化に対応する等」などと玉虫色の言葉を使えば何となく調整できた気になる。
でも法律の文章では「等」は厳密な用語です。私は「等」と書いた掛け軸を床の間にかけてもいい、と思うほど大切だと考えています。法律は国民の権利義務にかかわりますから、小さい言葉ほど軽く扱ってはいけないのです・・・

・・・「あなたの行為は、法律のこの『等』に含まれますので違反です」と罰則を科されたらたまりません。恣意(しい)的な解釈を防ぐため、厳密なルールで使われるべきなのが法文の「等」。覚えておいて損はないと思います・・・