連載の推敲、三層構造

連載の執筆に際して、皆さんになるべく読みやすく、わかりやすいように書くことを心がけています。これは、どのような文章を書くときでも、必須ですわね。

ただし、「明るい公務員講座」と「公共を創る」とでは、少々気配りが異なります。「明るい公務員講座」の内容は、主な読者である公務員の身近にあることなので、項目を立てて、それに沿った具体事例を書けばすみます。他方「公共を創る」は、うまく対応できていない社会の課題をどのように考え、解決するかですから、そうは行きません。次のように、三層構造で文章を考えています。

一層目は、具体事例です。私の体験、皆さんの周りにある出来事、ニュースが取り上げるような出来事です。そこには、外に表れる出来事と内面の意識とがあります。
二層目は、それらが、現在日本社会の課題群として、どのように位置づけられるかです。マスコミの解説(ニュースに取り上げられる個別の出来事でなく、それらの意味です)や、新しい課題を取り上げる新書などを想像してください。
三層目は、それら日本の課題を、どう変えていくか。これまで対応できていないのは、従来の行政の役割、公私二元論、自立した市民という考え方には、はまらないからです。個別の政策では解決できないと、私は考えています。すると、西欧で200年近く続いた、近代憲法構造(思想)を再検討しなければなりません。
こう考えると、我ながら、大それたことに挑戦していますね。

布を織る際に、小さな模様を集めて、一つの大きな模様にします。さらにそれを集めて、もっと大きな柄にします。それを想像してください。
もちろん、全体構成を作り、それを分けて第二層である章や節にしています。そしてその節の趣旨に沿った文章を書く際に、具体事例を並べています。
この項続く

「マックス・ウェーバー」

野口雅弘著『マックス・ウェーバー』(2020年、中公新書)を読みました。新書版という大きさに、ウェーバーの人生と学問が、切れ味良く整理されています。専門家はもっと分厚い本を読むのでしょうが、一般人には新書版はありがたいですね。内容は、本を読んでいただくとして。

私の学生時代は、マルクス経済学が下火になり、ウェーバーが一つのはやりでした。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は必読書でした(実は、当時読んでもよくわからなかったのです。後に飛ばし読みしたら、わかるようになりました)。『職業としての政治』も。
理念型(イデアルティプス)。近代の合理性、官僚制。信条倫理と責任倫理。正統的支配の「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の3つの類型。価値自由(これは「没価値」と訳されていて、私は長らく誤解していました)。

ところで著者の野口先生は、訳語に注意を払っておられます。『職業としての政治』を『仕事としての政治』と訳しておられます。この本でも、「没価値」を「価値自由」と、「心情倫理」を「信条倫理」と、「脱魔術化」を「魔法が解ける」と訳した方がよいと書いておられます。なるほどと思いました。

出ましたチャドクガ

玄関脇の椿の木。この春も、たくさん花をつけて楽しませてくれました。花の数は、多い年に比べると、少し少なかったようですが。刈り込みすぎて花が咲かなかった年に比べれば、立派なものです。
枝葉が元気よく伸びて、そろそろ剪定しなければと考えていました。

日曜日夕方、何気なく見ていると。いました、たくさんのチャドクガの幼虫が、固まりになって。
しかも、けっこう太っています。案の定、近くの小枝は食べられて、丸坊主になっています。葉が茂っているので、気がつかなかったのですね。
枝ごと切り落としたら、その横の枝に、もうひとかたまり。こちらは、まだ生まれたばかりのようです。
刺されるとひどいかゆみが残るので、慎重に。たくさんの幼虫がかたまっているので、取り除くのは簡単です。これがバラバラにいたら、大変です。

「え~い、この際」とばかりに、剪定もしました。お向かいのお師匠さんに教えてもらったように、先っぽを切るのではなく、枝の根元から透くようにしました。いつも元気よく切りすぎるので、今回は途中で止めて。様子を見て、再度刈りましょう。
もう6月ですものね。プランターのアサガオは、30ほど芽を出しました。

ムダを測る基準、目的と期間

5月29日の朝日新聞オピニオン欄「それって無駄? 新型コロナ」、西成活裕・東大教授の発言から。

・・・「この世に無駄なものなど何もない」という人がいれば、「この世は無駄だらけだ」という人もいる。2人の何が違うのか。そんな「無駄の謎」を研究してきました。
「これは無駄なのか」の定義は、実はとても難しい。
判断するためには、「目的」と「期間」という二つの項目を明確にする必要があります。目的を定めなければ効果を評価できないし、期間を決めなければ「どんなことも、いつかは役に立つ」ということで、すべてのことが無駄ではなくなってしまいます・・・

・・・企業の場合は、社長が「いつまでに何を達成する」と決めて、社員はその目標に向けて動く。比較的、無駄をなくしやすい構造ですが、一般社会では簡単ではありません。社会全体が同じ目的に向かうよう統制はできませんし、長期的な視点の人もいれば、今が大事な人もいます。だから国家の政策から家庭レベルまで、無駄をめぐってさまざまな争いが起きているのです。

今回、特に難しさを痛感するのが、予測不可能な事態に対する備えです。医療物資や人員、病床数などさまざまな不足が発生していますが、企業が存続をかけて、いつ起こるかも分からない危機に備えて余剰在庫を抱えることは、「目的」と「期間」に照らしあわせても不可能でしょう。だから、医療態勢や災害対応など生命に関わることは、公的機関がセーフティーネットになる必要があります。
公的機関に、そんな余裕はない? いいえ、もし新型コロナが「100年に1度の危機」なら、「期間」を100年に設定してビジョンを描けば、平時は過剰と思える備えも、簡単には無駄という結論にならないはずです。結果的に捨てることになるものがあったとしても、「国民の生命を守る」ということが、国家の最優先の使命、つまり「目的」。それが、社会で共有される必要があります・・・