多川俊映著『仏像 みる・みられる』(仏像を見る、仏像に見られる)に触発されて、碧海寿広著『仏像と日本人-宗教と美の近現代』 (2018年、中公新書)を読みました。
明治時代から現在までの、日本人と仏像との関わり方を、分析した本です。切り口が鋭く、よく整理されていて、名著だと思います。仏像の分析ではありません。仏像の社会学と言ったら良いでしょうか。仏像や古寺ファンの方には、お勧めです。
信仰の対象だった仏像が、美術品となっていきます。写真となって、流布します。それは、御札(おふだ)ではなく美術品としてです。そして、一部知識人の鑑賞の対象から、一般人の観光の対象になります。修学旅行の定番となります。お寺ではなく、博物館で見ることが多くなります。
信仰の対象であった時代には、秘仏として、参詣者が見ることができない場合でも、仏さまは仏さまでした。見ることができないほど、ありがたいものです。しかし、美術品、観光の対象となると、見ることができない仏像は、対象となりません。
しかし、私たちは、お寺で仏像を見た時、単なる彫刻に対してとは違った思いを抱きます。ミロのビーナスやダビテ像を見る時とは、違った気持ちになります。
「仏像を見る、仏像に見られる2」の記述で、私たちは仏様の目を見て、仏様の目を通して自分を見ると述べました。仏像写真家として有名な土門拳さんと、入江泰吉さんの言葉が紹介されています。
・・・ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そして時には語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる・・・土門拳、p159
入江泰吉さんが秋篠寺で伎芸天を撮影しようとした際のことです。ライトでは見えない仏様の表情が、ろうそくの明かりの前に現れます。
・・・そこでわたしは、灯明やローソクの明かりで仏像を仰ぎ見ながら祈りをささげた昔の善男善女の目にこそ仏像本来の慈悲のすがたが映ったのではないかとかんがえました・・・入江泰吉、p164