敗戦の認識5 政治責任と行政2

敗戦の認識の続きです。
戦争責任、諸外国との道義的責任を決め説明することは、どの役所の担当となるか。前回は、担当した役所が廃止された場合に、きちんと引き継がないと、その責任(謝罪と償い)は宙に浮く可能性があることを説明しました。
今回は、もう一つの問題です。

前回の議論は、内閣の事務はすべて、いずれかの府省に分担されているという前提で進めてきました。その前提に立たないこととすると、もう一つの議論ができます。
内閣(総理大臣)の仕事には、各府省に割り振ることのできないものがあるという考えです。
重要な判断、また大きな価値判断を伴う決定は、行政(官僚)はできない。それは、政治の責任であるという考えです。そのような判断は、国会や内閣(総理大臣)が決定し、それに従って行政(各府省)が処理するということです。
それは、行政が分担管理できない分野というより、政策決定過程の問題と捉えることができます。

戦争責任論の場合、国家として、国民や諸外国とその国民に、どのような認識を示しお詫びをするか。それは、国会と内閣が決めることでしょう。
外務官僚は、決まったことを諸外国に説明することはできますが、自らの責任で「国会答弁案」や「総理の外交での演説案」「総理談話」を書くことはできないのです。

このほかに、生命倫理に関することなどもそうです。理屈では判断できない問題です。
例えば、何をもって死と認定するかです。私の記憶にあるのは、2009年の臓器移植法改正です。子どもの脳死をどう判定するかが、問題になりました。議員提案の4つの案が採決されました。国会では、各党が党議拘束を外して、各議員の判断に任せました。
このときに、総理秘書官として、内閣や行政としての判断を求められたら、どのように対応するべきかを考えました。厚生労働省も「これです」といった案はつくれないでしょう。一人一人の判断が分かれる問題であり、内閣が決定し押しつけることは難しいでしょう。政党も意見集約をしませんでした。
死刑廃止論も、同様だと思います。各人の判断が分かれる問題です。法務省は現行制度の説明はできますが、廃止すべきかどうかの判断はできないと思います。

このような国民の間で判断の分かれる重要な価値の問題は、国会や総理が決定することです。
現行制度の問題点、選択肢、それぞれの利点と欠点を提示することは官僚機構もできますし、それが任務です。しかし、それを問題として取り上げるのか、どの案を選ぶのかは政治の責任です。それに従って、割り振られた担当省が事務を執り行うのでしょう。
日常の行政事務でもこのような役割分担はなされているのですが、国民の間で議論が分かれている、大きな価値判断の問題では、よりその分担が明確になるのです。

関連して、「忌まわしい過去を忘却する戦後ヨーロッパ

敗戦の認識4 政治責任と行政

敗戦の認識の続きです。
内閣の仕事は、各大臣(各府省)に分担管理されています。それぞれの事務について、担当府省があります。(内閣法第3条 各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する。)

では、このような「道義」や「責任」についての所管省はどこか。
戦争を実行したのは、陸海軍です。しかし、この役所(陸海軍)は廃止されました。引き上げに関することは厚労省に引き継がれていますが、戦争そのものに関することは引き継がれていないでしょう。例えば、日本陸軍が遺棄した化学兵器の処理は、内閣府にある遺棄化学兵器処理担当室が所管しています。防衛省ではありません。

外交については、外務省があります。よって、現在は、諸外国との交渉や話し合いの際には、外務省が担当します。しかし、戦争責任や日本の道義的復興について、政府が決めたことを話すことはできますが、それ以上のことは難しいでしょう。
では、戦争責任、諸外国との道義的責任を決め説明することは、どの役所の担当となるか。

国家の責任と所管省庁という問題には、二つのことが含まれていると思います。
一つは、戦争を始めた責任、戦争を遂行したことによって苦しみを与えたことについての、責任官庁はどこかということです。
所管がはっきりしている事務の場合は、問題ありません。例えば、国家が間違ったことをして、その責任を認めた例として、「らい予防法国賠訴訟判決」があります。「厚労省のホームページ」この場合は、厚生省、現在の厚生労働省です。

しかし、陸軍と海軍が廃止されたことで、どの省庁に引き継がれたか、不明確になったのではないでしょうか。
国家行政ですから、法令上は、廃止された組織の事務はいずれかの組織に引き継がれているはずです。しかし、陸軍や海軍の所管事務に、戦争を開始したことに関する責任は明記されていなかったでしょうから、明確に後継組織に引き継がれたかどうか。不確かなことを言ってはいけませんが、規定上はそのような引き継ぎはなかったと思います。

似た事例で、東京電力福島第一原発の事故の責任があります(一次的には東京電力の責任です)。すなわち、事故を防げなかった責任、事故が起こった際に適切な冷温停止作業ができなかった責任、国民への情報提供や近隣住民の避難誘導を適切に行わなかった責任です。
これを所管していたのは、経済産業省の原子力安全・保安院です。東京電力福島第一原発の事故を受けて、廃止されました。その事務のほとんどは、環境省の原子力規制委員会に引き継がれました。しかし、原子力規制委員会の所掌は、これから起きる原子力事故の防止であって、既に起きた事故の後始末は所管外です。原発事故の後始末(廃炉、被災者支援、避難指示の解除など)は、原子力災害本部が担っています。
事故を防げなかった責任や適切な避難誘導ができなかった責任は、原子力規制委員会も原災本部も引き継いでいないでしょう。もっとも、保安院は経済産業省の下部組織だったので、経済産業省がその責任を引き継いでいると理解することは可能です。国民へのお詫びや責任者の処分に関してです。

問題を起こした組織が、そのことによって取りつぶされる場合があります。しかし、与えた被害についての責任(の引き継ぎ)を明確にしておかないと、責任(謝罪と償い)が宙に浮くことがあります。私はこれを「お取りつぶしのパラドックス」と呼んでいます。(その二は次回に

進化する災害復旧、個人や事業主への支援

8月17日の日経新聞が、「西日本豪雨 個人・中小の再建 二重債務や廃業、金融支援策整う」を伝えていました。

・・・200人以上の死者・行方不明者が出た西日本豪雨から1カ月が過ぎた。広島、岡山、愛媛の3県では、がれきの撤去や交通インフラの復旧作業と並行して、個人や企業の金融支援ニーズが本格化しつつある。東日本大震災以降、再建を後押しする制度整備は進んできた。いかに周知し、迅速に使えるかが問われる・・・

詳しくは、本文を読んでいただくとして。かつては、個人や事業主の自己責任だったものに、公的支援が入るようになりました。これは、私が、東日本大震災の復興で痛感し、関係機関が頑張ってくれたことです。
それまで、特に阪神・淡路大震災までは、政府・行政の仕事は、極端に言えば、避難所の開設とインフラ復旧でした。それが、被災者の生活再開支援、まちの機能復旧、事業の再開支援にまで広がりました。
これらすべてを、行政が公的資金で行うことは無理です。金融機関、民間企業、ボランティア活動・NPOなどの協力が必要です。
どんどん、復旧支援が進化しています。ありがたいことです。

社会はブラウン運動4 指導者の意図も行き当たりばったり

社会はブラウン運動」第4回です。
社会を導くのは指導者です。歴史を作る際に、一般人より影響力を持ちます。しかし、国民が思い思いの意図で動くとともに、政治指導者も自分の思うように、意図を実現できるものではありません。
彼も、競争相手との競合があり、国民の支持を取り付ける必要もあります。民主主義だけでなく独裁国家であっても、政治指導者は国民の支持を取り付けるため、さまざまな「演技」をしなければなりません。

さらに、指導者たちも、一定の目標を持って政治を進めたのではないようです。その場その場での判断を積み重ねた結果、歴史に残る業績が残ったようです。彼らに変わらない信念があるとしたら、権力を維持し拡大することでしょう。
もちろん、ある政策を実現するという信念を持っている場合もあるでしょうが、社会のすべての要素について、目標を持つことは不可能です。しかし、権力者がある政策を実現しようとして権力を握ると、一部のことにだけ関心を持つだけではすみません。
競争相手との競合については、三谷博先生の『維新史再考』を紹介した際に、歴史がジグザクに進むと説明しました。「歴史をつくるもの、『維新史再考』2

強力な独裁者であったナポレオンもヒットラーも、信念であのような国家をつくり、対外戦争を続けたというよりは、その場その場で国民の支持を取り付け、政権を維持することを優先したとみえます。そのために、戦争を続けなければならなかったのです。
共産主義革命を担った指導者は、その信念を実現しようとしたのでしょう。しかし、レーニンや毛沢東が権力奪取を優先し、さらにその後継者たちは共産主義より権力維持を優先しました。

現代においても、トランプ大統領の政策や発言は、ある政治哲学に基づいているのではなく、自らが目立つことと国民の支持を取り付けることを優先しているように見えます。その際には、これまでの世界の指導者が考えてきた自由貿易体制をより強固にするのではなく、それをひっくり返すことで、国民の人気を得ようとしています。 既存のリベラルな主張やオバマ政権の路線をひっくり返すことで、国民の支持を取り付けようとしています。

さて、このブラウン運動の連載は、歴史はある法則に従って進んでいるのではなく、ジグザクに動くという話です。その基礎には、人の動きはブラウン運動的であるという話でした。
事前の大方の予想を裏切ってトランプ大統領当選したのは、それを支持した国民がいたからです。これまでの先進諸国の歴史の動きは、自由貿易体制の進化でした。それに反発する彼の主張が、一時の「エピソード」に終わるのか、アメリカがますますその方向に動くのか、世界全体がその方向に変化するのか、それは時間が経たないとわかりません。
ただし、社会は自然と流れているのではなく、参加者である人たち特に政治家やオピニオンリーダーによって方向を変えることもできます。(この項終わり)

社員は出世のために仕事をする

8月16日の日経新聞私の履歴書、安斎隆さんの「バブルの予兆」 から。

・・・本店考査局考査役に就いたのは1987年5月。バブルが膨らみ始めた時期だった。考査役の仕事は、金融機関の資産と経営内容の検査(日銀では考査と呼んでいる)だ。当時は「バブル」という言葉は使っていなかったが、地価や株価が急騰する経済情勢の中で金融機関は道を踏み外していないかと目を光らせた。部下とともに金融機関への聞き取り調査を重ね、経営の実態をつかもうとした。
全国各地で、担保価値が100の案件に対して120の資金を貸し出すような事例が急増し、雨後のたけのこのように地域開発プロジェクトが生まれていた。バラ色の開発計画を合計してみると、日本の人口が何倍にも増える見込みになっている。明らかに無謀な計画だった。

金融機関の中には、過剰融資に危機感を持つ人もいたが、内部は厳しい競争社会であり、「自分はまともにやっているから内部の評価が上がらず、変なことをやっている人間の評価が上がる。無理をしてでも実績をあげよう」という声のほうが勝っていた・・・

・・・90年代にバブル経済は崩壊し、日本の金融機関は長い時間をかけて総額100兆円を超える不良債権を処理した。「宴が佳境に差し掛からんとしたときにテーブルの上の食事やワインをさっと片づけるのが中央銀行の役割」という言葉があるが、金融引き締めのタイミングを見極め、実行するのは本当に難しい・・・

自分の仕事を「おかしい」と感じても、社内の風潮に流される、出世競争に負けると思うことで、その仕事を続けてしまうことがあります。そこで、異を唱えることができるか。難しいところです。
すると、それを止める立場にある上司、幹部の責任が重くなります。もっとも、彼らの多くも「期末の評価を気にするサラリーマン」です。