キャノングローバル戦略研究所のサイトに、岡崎哲二と星岳雄さんによる、「政府のイノベーション政策はなぜ失敗続きだったか-第2回 成果を検証する厳密な政策評価が必要だ」(日経ビジネスオンライン2015年10月26日掲載)が載っています。
筆者の主張は読んでいただくとして、ここで取り上げたのは「政策の検証の必要性」についてです。
・・・本稿では、いままでの日本におけるイノベーション政策の主なものを振り返る。特に問題とするのは、30年以上にわたるイノベーション政策の効果が、必ずしも明らかではないことである。日本経済の長期停滞状態を払拭するような、イノベーションに基づく経済成長のシステムはいまだ確立されておらず、現在進行中のアベノミクスにおいてもイノベーション政策が大きな課題になっている・・・
・・・ナショナル・プロジェクトなどの研究開発投資支援策の効果については、参加者の自己評価を超えた客観的効果に関する研究は見当たらない。企業促進政策も、厳密な政策評価がなされたものはなく、そもそも政策によって提供された優遇措置の利用実績が低調なものも多い。
政策の効果を厳密に確かめることなく、同じような政策が主に名前だけを変えて繰り返し実施されてきた。例えば、リスク・キャピタルの供給を目的に、日本政策投資銀行や商工中金といった公的金融機関を使った数々の試みが行われてきたが、それらの政府系機関によるリスク・キャピタルの供給実績は不十分であったと言わざるを得ない・・・
・・・このように、政策の効果は、その政策がなかった場合に起こったであろう状態と比べることによって、評価されなければならない。これは一見難しいと思われるかもしれないが、そのための手法はここ20年ほどの間に飛躍的に進歩した。
日本のイノベーション政策に欠けていたのはこの種の厳密な政策評価である。日本政府は早くからイノベーション型経済の発展を促す上で政策が重要と気づいており、多くの政策を試みてきた。
しかし、厳密な政策評価を伴わなかったので、どのようなイノベーション政策が効果的なのかはいまだ明らかではない。アベノミクスのもと、政府は再度数多くのイノベーション政策を試そうとしている。今度こそ、厳密な政策評価を行ない、そこから学び、政策を調整していくことが肝要である・・・
第1回、第3回。
イノベーション政策に限らず、政府が行った政策について、より客観的かつ長期的視野に立った評価が必要です。毎年の事業や予算を評価するのではなく、例えばその省・局の10年程度の評価です。各役所は「これをします」「これをしました」という表明は多いのですが、その結果を検証することは、十分に行われていないようです。
月別アーカイブ: 2016年4月
仮設住宅の終了
宮城県岩沼市で、仮設住宅が終了し、解体が始まりました。384戸に1020人が住んでいました。宮城県では第一号です。岩手県では洋野町が昨年6月に仮設住宅が終わりましたが、戸数が5戸と少なかったです。
新聞の見だし
4月27日の読売新聞夕刊に、「東電に3100万円賠償命令」という記事が載っていました。福島第一原発事故で病院に入院中の患者がバスで避難させられ、死亡した事件です。遺族が東電に賠償を求めた裁判の、東京地裁の判決です。この事件は、原発事故とともに、避難誘導が適切に行われなかったという、反省すべきことです。
ところで、今日ここで取り上げたのは、新聞の書き方についてです。読売新聞には、「遺族側の代理人弁護士によると、東電側は避難と死亡との因果関係は争わず、賠償額が主な争点だった」と書かれています。他方で、朝日新聞夕刊は「避難患者死亡、東電に責任 東京地裁、原発事故で賠償命令」という見出しです。この見出しを見ると、東電が患者死亡について責任の有無を争っていたと読めます。記事にも、東電が因果関係は争わず、賠償額が争点だったことは書かれていません。これは、誤解を招きますね。編集者も気がついたのでしょうか、翌28日朝刊には「3100万円賠償、東電に命令 入院患者、原発避難で死亡 東京地裁判決」という見出しになっていました。
気になって他紙を見たら、毎日新聞28日朝刊は「東電は死亡との因果関係を認めており、賠償額が争点だった」、日経新聞28日朝刊は「東電側は原発事故と死亡との因果関係は認め、賠償額を争っていた」と書いています。
福澤武さん、丸の内の再開発
日経新聞「私の履歴書」4月は、福澤武・元三菱地所社長でした。若いとき肺結核を患い、中学高校に通えず、大検で慶應大学に進みます。28才で卒業し、採用年齢制限のなかった三菱地所へ。その方が、社長になられるのです。連載では闘病生活に多くが割かれ、会社員時代のご苦労は少ししか触れておられないようです。ご自身の経験からすると、生死の境をさまよい、人並みの生活を送れなかったことのほうが、重い意味をもったのでしょうね。「それに比べれば、会社員の苦労なんか・・」ということでしょうか。
私が特に興味を持ったのは、丸の内(東京駅の前、三菱村と呼ばれる地区)の再開発です。丸の内は東京を代表するビジネス街です。東京駅の玄関であり、丸ビルに代表される、大企業が集まった地区です。私が就職した頃、そしてその後長く、私には、「縁遠い街」でした。行くことは、まったくありませんでした。東京駅で降りてご飯を食べるにしても、裏口である八重洲口にある猥雑な地域を利用していました。純粋なビジネス街であって、そこで勤務している人や仕事に関係ある人以外は、近づかない地区でした。それを、現在のような、高級商店やレストランがある街に変身させたのが、福澤さんです。今回の連載を読んで、初めて知りました。
その原点は、アメリカ勤務にあります。1975年から3年半、ニューヨークに駐在します。パートナーは、名門証券モルガン・スタンレーの不動産子会社です。
・・・街づくりのヒントも見つけた。モルガン・スタンレーはもともと、金融機関が多いウォール街のあたりに本社を構えていたが、ロックフェラーセンターに引っ越すと、女性社員たちが大喜びをしたという。会社の近くで食事も買い物も楽しめるようになったからだ。
「ビジネス・オンリー」の街はいつしか活気を失っていくのではないか。週末はゴーストタウンと化す丸の内の街並みが頭をよぎった・・・(4月22日掲載分)
それでいうと、霞が関も官庁街であって、街ではありません。今でこそ、いくつかの庁舎にコンビニやしゃれた食堂が入っていますが、かつては、職員食堂と小さな商店しかなく、休日に出勤すると「陸の孤島」でした。今も大して変わっていませんが。街との接触を避け、機能面で純化することは、生活のしやすさやにぎわいを考えると、良くないですね。郊外に移転した大学もそうでしょう。部外者を排除し純化すると、たぶん生活も思考も、「狭くなる」と思います。一種の租界であり、塀には囲まれていませんが、刑務所の中と同じです。街の中で雑居している方が、人間らしく生活できます。溜池にある三会堂ビルは良かったです。周囲は飲食店がたくさんあり、赤坂も近かったです。今度の執務室がある4号館は、陸の孤島の霞が関でも、その真ん中にあるのです。
復興庁の引っ越し
28日が、復興庁の三会堂での執務の最後の日でした。机や機械類は業者が運んでくれるので、番号札を貼り付けました。何人かのお客さんが来られたのですが、番号を振った椅子に座ってもらって、「いや~、引っ越しで・・・」とお詫び。
書類は、各人が段ボール箱に詰め込みます。職員たちが数日前から、それぞれ取りかかっていました。これを機会に、不要なものを処分。といっても、仕事をしながらなので、すべてを箱に入れるわけにはいきません。意外と手間取るのが、文房具などの小物類です。最終日は、大変な作業、騒ぎでした。6時過ぎには、業者が来るので、それまでには片付けなければなりません。私も、5時過ぎには、すべて完了。資料は、2箱でした。
このビルで、5年間執務をしました。発災直後は、総理官邸の向かい、現在の8号館がある場所にあった内閣府庁舎(講堂とプレハブ)でした。6月に坂道を下りて、アメリカ大使館の前にある、この民間ビルに入りました。
それから、仕事がどんどん変わり、任務も拡大しました。それにあわせて、職員の増員をし、執務室の拡大と配置換えをしました。しょっちゅう、机の並び替えと職員の席替えをしていました。これまでにない仕事なので、試行錯誤をくりかえしつつです。
まあ、ダイナミックなものでした。執務室の変遷が、仕事の変化を表しているのですね。現在在籍している職員で、最初から知っているのは、私だけです。いささかの感慨を覚えつつ、放課後の異業種交流会へ出かけました。