楢葉町の避難指示解除

9月5日に、楢葉町の避難指示が解除されました。ニュースで伝えられているとおりです。「町長のメッセージ」にあるように、長期のまた遠くへの避難は、大変なご苦労であったと思います。ニュースでは、自宅に帰ることができたご家族の、うれしい顔が紹介されていました。他方で、子どもさんの学校の関係でまだ帰還できない方、新しい土地で定住を決めた方もおられます。全員の住民が一度に戻るわけではないので、商店や病院などのサービス、ご近所付き合いなども、これから徐々に「再開」する必要があります。町の復興の第一歩が始まったということです。読売新聞の9月6日の社説「楢葉町避難解除、住民帰還のモデルにしたい」が、課題と希望を整理しています。
ところで、多くの記事が、戻る家族とまだ戻らない家族の双方を取り上げ、あわせて復興への課題を取り上げています。しかし中には、戻れない理由や残る課題を主に取り上げた、悲観的な記事もありました。まだまだ課題があることは事実です。しかし、住民や町役場は、それを乗り越えて町を復旧させようと努力しています。行政への批判は仕方ないとしても、住民の意欲をそぐような記事はいかがなものでしょうか。「・・・と課題は多い」とか「・・・苦悩は深い」と書いた後に、「住民はそれを乗り越えようとしている」とか「課題を解決して町を復興させて欲しい」と一言あれば、関係者も元気が出るのですが。

復興。市町村長の決断と動き、住民の協力

9月5日の日経新聞p2(政治解説欄)「真相深層」が、「東北復興、初動の重み。震災4年半、集団移転や水産業再生で差」「リーダーと住民の決断カギ」を書いていました。他の市町村より早く円滑に、集団移転や産業復興を成し遂げた事例の背景に、市町村長の決断とそれに応えた住民があったことを、分析しています。
宮城県岩沼市では沿岸部で被災した6集落を、内陸部に新しい街をつくって移転させました。避難所に被災者を移動させる際に集落ごとに集まって暮らしてもらい、仮設住宅でも新しい町でも、元の集落ごとに固まって住んでもらいました。同時に、新しい街をつくる議論についても、集落ごとの意見集約を急ぎました。市長のリーダーシップです。宮城県女川町では、町長が先頭に立って、駅前の土地の買収を行い、ここを街の賑わいの中心にする工事が進んでいます。もっとも、首長が素早い決断をしても、住民の納得がないと、その後の事業は円滑には進みません。ご関心ある方は、お読みください。
記事では紹介されていませんが、ほかにも、市の活力の源は水産業だとして、魚市場の復旧を急いだ岩手県大船渡市長や、素早く用地を確保して公営住宅を造り自治会もつくった宮城県東松島市長もおられます。かつては、2004年の中越地震の際、全村民から委任状を取り付け、復旧事業を迅速に進めた、新潟県旧山古志村の長島忠美村長(現・復興庁副大臣)もおられます。
もっとも、事業がうまく行くには、市町村長の力量だけでなく、議会の理解と協力、住民の協力・住民の首長への信頼も重要なのです。住民の中に核となる町内会長や商店街の幹部がいることも、意見の集約に効果的です。市町村を回っていて、しばしば市町村ごとの政治風土の違い、首長と議会との力関係を感じました。

国際研修交流協会セミナー講演

今日は、福島県裏磐梯まで行って、「国際研修交流協会セミナー」で講演。といっても、大勢の発表者が順次話します。同時通訳付きなので、通訳しやすいように、ゆっくりとかつ文章を短く切って、話しました。時間も限られているので、要点だけ話さなければなりません。前列に座っている外国の方の顔を見ながら、イヤホンで通訳さんの英語がどこまで来ているかを確認しつつ、そして全体の観客の反応も見ながらです。これは、気を遣いますわ。本当に要点しか話せません。でも、いつもの早口より、今日の話の方が、理解しやすかったでしょうね。
車中から見える田んぼは、稲が実りつつあり、別の畑では、蕎麦の花がきれいでした。来週は、3回、人前で話す機会があります。

NPOの復興支援コーディネーター

被災地での復興を支援してくれているNPOの「RCF復興支援チーム」が、「RCF」に名前を変更しました。趣旨は次のようです。
「2014年度以降、RCFが推進する東北での事業は、個別事業(点)の深化とともに、さらに広域的な事業(面)へと広がっています。同時に、東北での実績がモデルとして全国から注目される例も増えており、復興支援のコーディネートだけでなく、社会課題解決全般へのコーディネートニーズも高まっています。このため、RCFは、東北復興支援で得た知見を復興支援以外に生かしていきたいという想いを形として推進するため、名称変更を実施します。震災からまもなく4年半となりますが、東北の復興支援を主業務として引き続きコミットすることには変わりありません。今後も私たちの目的である、国内外の社会課題解決のため、更なる取組推進を行う所存です」。
復興支援だけでなく、社会問題一般へと業務が拡大したことは、それだけの実績を積むことができ、また需要が見えてきたということですね。うれしいことです。
一般の方には、NPOがどのような支援をしているのか、どうして事業として成り立つのか、あまりご存じないと思います。私も、最初は不思議でした。藤沢烈代表は、仕事を「社会事業コーディネーター」と表現しています。リンク先の説明を読んでください。行政、企業、NPOなど、社会問題を解決する主体の間を取り持ち、また単に助言(コンサルティング)ではなく自ら入り込んで調整します(コーディネート)。行政の下請けでなく、行政や企業と協業するのです。復興の現場でも、支援したい企業やNPOも、支援して欲しい役所も、相手を探しています。しかし協力してもらえる企業やNPO、ある仕事に詳しいNPOを探すことは、結構難しいのです。最近でも、RCFは、このような企業と行政をつなぐ仕事をしています。

大坂落城400年

朝日新聞8月29日オピニオン欄「戦後400年!」、堺屋太一さんの発言から。
・・・400年前に大阪はいわば焦土となりました。大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぼされ、大坂城が落城した。そんな場所はそのまま衰退してしまうのが歴史の常識でしょうが、大阪は違いました。
「八百八橋」をはじめとして様々な異名がありますが、江戸期の大阪を表す最も的確な言葉は「天下の台所」でしょう。諸大名がコメや特産物を売るための蔵屋敷が軒を並べ、西国を中心に全国で生産されたコメが大阪に持ち込まれ、金や銀などの通貨と交換されました・・・
・・・大坂の陣の後、淀川の中州を開発し、現在の中之島を整備したのが、豪商・淀屋常安(じょうあん)でした。そこに諸藩の蔵屋敷が集まります。淀屋が架けたのが、今もビジネス街の中心を結ぶ「淀屋橋」です。
息子の个庵(こあん)は天才的なイノベーターでした。大名の蔵米販売を引き受け、店前にコメの市を立てました。これが堂島米会所へと発展し、全国の米相場の中心地になります。
大阪の米相場から生まれたのが先物取引です。やがて8代将軍徳川吉宗の時代、世界最初の公認先物市場となり、今や世界に広まる商品先物取引に発展するのです。
この他、繁華街の宗右衛門町や街々を結ぶ多くの橋も、町人たちによって開発されたのが江戸時代の大阪です。
官需なしに住民自ら興した都市は、日本広しといっても大阪ぐらいでしょう。政府の財政赤字が膨大になった今こそ、注目されるべきです・・・