22日の読売新聞で、佐々木毅前東大学長が「中国反日デモ、政治的経験の質を問う」を書いておられました。
「・・同時にこの関係は日中を越えて世界の視線を浴び、世界のメディアの今後の継続的な監視対象となった。その結果、両国はとかく過去の歴史を材料にして現在や未来の日中関係を論ずるというこれまでのスタイルに代えて、現実を見据え、未来を展望した日中関係の可能な姿を責任を持って描かなければならない時代に入った。それは世界において適切な評価を受けるためには、両国政府は日中関係をより安定した関係に導く歴史的な責任を事実上負ったということである。」
いつもながら、鋭い指摘ですね。続いて、次のように書いておられます。
「その鍵を究極的に握るのは政治権力のあり方、政治参加のあり方である。」
「政治的な近代化とは大多数の人間が『現実』に自ら対面し、それなりの『現実』感覚を養い、その上で政治権力と向かい合うことを前提にしている。」
「政治的近代化は言われるほど容易なものではないし、一挙に実現可能なものではない。・・意識面や制度面での長い経験の蓄積なしには政治的近代化はその現実性を持ち得ない。それは政府と国民との一定の信頼関係を蓄積することによって初めて可能になる。」
そうですね。憲法や議会を輸入しただけでは、民主主義は根付きません。近代民主主義政治という制度資本が動くためには、関係資本や文化資本が必要なのです。それは努力と経験という蓄積から生まれます。
拙著「新地方自治入門」では、社会を成り立たせる社会資本として書きました(p199)。でも、こんな話って政治学の教科書には載っていないのですよね。
月別アーカイブ: 2015年5月
公共インフラの復旧進捗状況
公共インフラの本格復旧・復興の進捗状況を、定期的にパーセントで示しています。道路など14事業23項目です。このたび、平成27年3月末の数字を取りまとめ公表しました。ピンク色が完成済み、青色が着工済みです。
ほとんどの事業が、ほぼ完成に近づいています。時間がかかるのは、防潮堤の新設(海岸事業のうち復興分)、復興道路(道路の新設や改良。復旧は終わっています)などです。
足で取材して書いた復興現場の記事
朝日新聞の連載「けいざい深話。つなぐ復興」は4回連続でした。第1回目宮古市の「チーム漁火(いさりび)」は、すでに紹介しました。
第2回「仕事を取り戻せ、目覚めた若手」は、原発避難区域で操業を再開した、鋳物やさん。
第3回「世界一軽く薄い絹、総がかりで」は、じり貧の絹織物業界の中で、世界最薄の絹の商品化に成功した絹織物やさん。
第4回「福幸商店街、それぞれの決断」は、津波被災地での仮設商店街に入った商店の、本設店舗への移転でした。
マスコミは、「復興が遅れている」とか、とかく批判的な記事を書きがちです。特に、現場を見ずに、東京で書いている記事もあります。それを読んだ読者は、「復興は進んでいないんだ」と思い込みます。そして現場に行ったときに、現実を見て驚きます。
これには、定番の記事に慣れていて、批判的記事を「やっぱり政府はダメだ」と受け入れる国民にも、問題があるのでしょうが。
今回の企画は、現地を歩いて経営者に取材し、客観的・具体的に、復興の現実を書いていただきました。田中美保記者、ありがとうございました。
椿の剪定
今日、お向かいのSさんにお願いして、玄関横の椿の枝を剪定してもらいました。一昨年は、Sさんに手入れをしてもらい、去年はきれいな花をたくさん咲かせました。花が終わったら、チャドクガの毛虫が大発生したので、私が剪定しました。大胆に刈り込んだら、今年は花を一輪も咲かせませんでした。引っ越してきて9年。こんなことは初めてです。
で、今年は、プロにお出ましを願いました。そして、どのように切ればよいのか、指導を受けました。まず、去年は切る時期が悪かった。若葉の時期にやってはいけない。その他、絡み合っている枝をどう処理するか。そもそも、大きな刈り込みばさみでやっていたのが、失敗でした。
さらに重要なコツ。今年一年で形を整えるのではなく、来年を考えながら、切る枝と残す枝を選ぶのです。なるほど。その長期的視点が重要なのですね。これは、いろいろな場面で、応用できます。
お師匠様は、下の方のいくつかの枝には手を入れず、私に向かって「ここを残しておきましたから、やってみてください」と。う~ん、できた師匠です。私は切る前に「これは切って、ここを残すのでは、どうでしょうか」と、おそるおそる伺いを立て、採点してもらいました。その際も、「ダメです」とはおっしゃいません。
いや~、弟子を育てることが上手なお師匠さんです。私も見習わなくちゃ。もう遅いか。
外から組織を見る、純粋培養の時代は終わった
日経新聞「私の履歴書」、今月は、川村隆・日立製作所相談役です。19日付けの「貴重な経験」から。川村さんは、副社長を最後に日立を去り、グループ会社の会長に転出します。その会社は規模が小さく、会社の全容がつかみやすいのです。
・・・組織の風通しも格段にいい・・・会社にとっても大事なプロジェクトであり、最初のキックオフ会議には、会長、社長も出席した。
その席で意見を募ると、驚いたことに机の後方に座る若手からどんどん手が挙がり、具体的な提案が飛び出してくる。開発の第一線に携わる彼らの意見は的確で、それをその場で次々に採用して開発日程や新製品の骨格が固まっていく。見ていてほれぼれするようなスピード感だった。
これが日立製作所なら、こんな展開にはまずならない。会長、社長の出る会議で若手が意見を言うことはほとんどなく、机の後ろに座って上層部が話すことを黙々とメモするのが関の山。「意見を言って、それが自分の上司の意見と違ったら具合悪い」と自制するのだ。
こうした経験を通じて、外から会社を見ることの重要性を痛感するようになった。日立という組織の中では当たり前の常識が、一歩外に出ると非常識に変わる・・・
・・・日立製作所とは違う企業文化に身を置くことで、経営者としての幅が広がるのだ。「純粋培養」を尊ぶ時代は終わったと思う・・
原文をお読みください。
かつて、河原春郎ケンウッド会長の話を紹介したことを、思い出しました(2007年12月15日の記事)。
・・・面白いたとえがあります。入社して「煙突」の中をはい上がり、社長や役員になって煙突を抜けパッと視界が広がる。自分は金箔をつけて出てきたと思っても、外から見ると煤だった。そんなギャップがある・・
「41年間東芝に勤めた生え抜きなのに、なぜそのギャップが生まれなかったのですか」との問いには、
・・・僕は会社では「エイリアン」でしたから(笑い)。28歳でGEに行き、「世界とはこういうもんだ」と思って帰ってきて20年、「あいつは変だ」といわれ続けた・・