民主主義という制度資本を支える、政治的成熟という関係資本

22日の読売新聞で、佐々木毅前東大学長が「中国反日デモ、政治的経験の質を問う」を書いておられました。
「・・同時にこの関係は日中を越えて世界の視線を浴び、世界のメディアの今後の継続的な監視対象となった。その結果、両国はとかく過去の歴史を材料にして現在や未来の日中関係を論ずるというこれまでのスタイルに代えて、現実を見据え、未来を展望した日中関係の可能な姿を責任を持って描かなければならない時代に入った。それは世界において適切な評価を受けるためには、両国政府は日中関係をより安定した関係に導く歴史的な責任を事実上負ったということである。」
いつもながら、鋭い指摘ですね。続いて、次のように書いておられます。
「その鍵を究極的に握るのは政治権力のあり方、政治参加のあり方である。」
「政治的な近代化とは大多数の人間が『現実』に自ら対面し、それなりの『現実』感覚を養い、その上で政治権力と向かい合うことを前提にしている。」
「政治的近代化は言われるほど容易なものではないし、一挙に実現可能なものではない。・・意識面や制度面での長い経験の蓄積なしには政治的近代化はその現実性を持ち得ない。それは政府と国民との一定の信頼関係を蓄積することによって初めて可能になる。」
そうですね。憲法や議会を輸入しただけでは、民主主義は根付きません。近代民主主義政治という制度資本が動くためには、関係資本や文化資本が必要なのです。それは努力と経験という蓄積から生まれます。
拙著「新地方自治入門」では、社会を成り立たせる社会資本として書きました(p199)。でも、こんな話って政治学の教科書には載っていないのですよね。