読売新聞1面コラム「地球を読む」4月26日は、山内昌之明治大学教授の「戦後70年、和解阻む歴史の政治利用」でした。
・・・世界のどの国にも自由に歴史を解釈する権利がある。しかし、自由に歴史を研究する権利を認めない政治体制は、公式のイデオロギーや公権力の統制によって国民の歴史認識を上から支配する。他方、事実でなく、強烈な思いこみや誇張を含めた物語として歴史を作る国も存在する。
中国共産党の激しい権力闘争や、韓国社会の時に非理性的な世論の下では、国内や国際舞台での争いを有利に進めるため、日本の過去を批判し続ける形で外交に歴史が持ち込まれる。自国については善行や美事だけを力説し、日本の過誤や悪事をことさらに強調する姿勢を見ると、唐代の史書「史通」を思い出す・・・
・・・中国と韓国では、歴史の解釈を古典的な「名教」(人の道を明らかにする教え)と考えがちなのだろう。いわゆる従軍慰安婦問題や南京事件についても、旧日本軍の関与の有無や死者の実数ではなく、自分たちの求める「事件」を想像させる現象があれば、それによって歴史を作れると信じているのだ。史実の学問的究明よりも、外交や宣伝戦でいかに効果的に歴史を利用するかという政治手法を優先させるからでもある・・・
・・・日本が戦後歩んできた平和国家としての実績を反省や謝罪の表れと認めない一方、大躍進や文化大革命、天安門事件で傷ついた同胞の悲運や死者数の実数を公表できないような歴史認識は不幸である・・・
歴史は、誰が解釈するのか。政府・政治は、それとどのような関係に立つのか。事実の探求だけでなく、事実の記述でもない場合があることがわかります。歴史とは何か。これは、E・H・カーの名著の表題ですが、自由な歴史解釈と政治によるあるいは政治の色がついた解釈との違いがわかります。その意味で、「歴史とは何か」についての、わかりやすい解説です。詳しくは、原文をお読みください。