司馬遼太郎著『明治国家のこと』(2015年、ちくま文庫)、「ポーツマスにて」p98。
・・中世という時代規定はあいまいだが、私のイメージでは、西洋・日本をとわず、人間が、しばしば激情に身をまかせた時代といったふうな印象がある。
さらには、中世にあっては、モノやコト、あるいは他者についての質量や事情の認識があいまいで、そこからうまれる物語も、また外界の情景も、多分にオトギバナシのように荒唐無稽だった。人知が未発達だったということではない。そういう認識の空白のぶんを大小の宗教がうずめていた・・
・・近代においては、社会をおおった商品経済(貨幣経済)が、人間をそれ以前の人間と訣別させた。学校ではなく、社会が、モノやコト、あるいは自他を見る目を育てたのである。
このことは、日本ではすでに江戸中期において、物を質と量で把握し、社会のできごとを商品の流通を見るような冷徹さで観察できるようになっていた。また貸借という行為によって、ヨーロッパにおける意味とはやや異なるものの、個人という意識を成立させた・・