アンケートの成果

内閣支持率や政党支持率の世論調査から始まって、行政機関の施策やサービスに関するアンケート、さらには商品の評価まで、アンケートや世論調査は大はやりです。関係者はその結果に一喜一憂し、さらに評論家はその結果にいろいろな理由と予測を述べます。もちろん、国民や市民また顧客の評価を調べることは、重要なことです。ところが、時々「???」と思うこともあります。
一つは、ある施策やサービスについて問う場合に、その調査結果をどのように使うかです。調査結果が次の改善に結びつかないと、調査のしっぱなしでは意味がありません。100%良い評価がでているのなら、改善しなくて良いのでしょうが、そのような結果が出るのは珍しいでしょう。
より良いサービスを目指して利用者や顧客の意見を聞くのなら、どの点がどのように悪いかを聞かなければなりません。また、次の改善につながるような質問と回答にしておかないと、単に「ダメ」といった回答では、次の改善に反映できません。
「利用料はもっと安い方が良いですか」と聞き、別に「サービスはもっとたくさんして欲しいですか」と聞いていては、利用者は両方に「ハイ」と答えるでしょう。でも、予算が限られている時に、それでは次にどうしたらよいかわかりません。
もう一つは、政党支持率などの世論調査結果の意味づけです。仮にA党の支持率も大きく過半数を下回り、B党の支持率も同程度、そのほかの党はもっと低いというような結果が出たとします。最近のマスメディアの調査結果は、このようなものが多いですが。
ある人が、これについて、次のように指摘していました。「それは調査結果として事実だけど、じゃあどうするの?」「このような調査は好き嫌いを聞いているのと同じであって、日本の政治をどうしようという、建設的な問ではないね」「これもダメ、あれもダメと言っていては、前に進まない。代案のあるような調査にしないと、批判だけだと進歩はないよ」と。

校正の悲しみ

北海道大学の宮脇淳先生から依頼されていた、原稿の校正をしました。「行政改革の現在位置~その進化と課題」年報『公共政策学』第5号(2011年3月予定、北海道大学公共政策大学院)です。1990年代以降の行政改革を分類し、その範囲と目的の変化を論じました。この数年間にわたり温めていた勉強の成果なので、自信作です。
今日の話は、原稿の校正についてです。かつては、手書きの原稿が活字になって帰って来るので、ゲラ刷りを校正することは楽しみでした。ところが最近は、ワープロ原稿を渡すので、汚い手書きがきれいな活字に変わる喜びは小さくなりました。それどころか、校正をするたびに、がっかりします。
原稿を書き終えて提出した時は、ほっとするとともに、書き上げた高揚感で満足しています。「我ながら良く書いた」と。ところが、ゲラになって戻ってきて読み返すと、落ち込みます。時間をおいて読み返すことで、書き足りなかった点や、読みづらい文章が見つかるのです。自らの力不足を反省します。 しかし、執筆の分量は限られ、締め切りが迫っているので、最小限の手直しをして送り返します。その際、編集長の朱が入ったところは、「なるほどねえ。そうだわ」と納得し、安心します。ありがたいことです。
私は依頼を受けると、なるべく早く骨子だけは書いておき、それをいったん原稿にした後、締め切り前にもう一度加筆するようにしています。そしてできれば、誰かほかの人に読んでもらって、意見を聞くようにしています。時間をおいて読み返すと、書き足りないところや読みにくいか所が見えてきます。また、読み返すたびに、加筆する場所が見つかるのです。もっとも、今続けている連載は、毎回締め切りに追われて、「熟成させる」時間が取れません。反省。

2011.02.04

慶應義塾大学の試験答案、146人の採点を終えました。出題した3問とも、授業で配ったレジュメと資料から出したので、正解はそれを見てください。
多かった間違いを、指摘しておきます。所得税と法人税は国税であり、地方税ではありません。また、「地方税を回収する」という記述が多かったですが、税金は「徴収する」であって、「回収する」とは言いません。

黒川和美先生ご逝去

法政大学教授黒川和美先生が、お亡くなりになりました。まだ64歳の若さです。とても残念です。
先生には、親しくしていただきました。気さくなお人柄で、そうそうたるメンバーの研究会にも小生を誘って下さいました。私にとって、異業種の方との交流は、勉強になりました。例えば、「世間では、交付税制度はこう思われているのだ」とか。
先生のお病気は難病でした。早い段階で、私にもお話し下さいましたが、先生流の達観したお話し方でした。昨秋にお会いし、お元気そうでしたので、安心していたのですが。ご冥福をお祈りします。

社会のリスクの変化と行政の役割2

社会のリスクの変化と行政の役割から続く

拙稿『社会のリスクの変化と行政の役割』第5回が載った、『地方財務』2月号が、発行されました。
今回は、第4章「政府の役割の変化」第1節「リスクに対する政府の役割」です。地震、交通事故、新型インフルエンザ、引きこもりといった典型的なリスクに対して、政府(中央、地方)がどのような役割を果たしているかを整理しました。このように対象を広げて社会のリスクを見た場合に、何が共通していて何が違うかです。このような横串的な視点は、これまでになかったと思います。
そして、政府の役割について、現場での対策とともに、対策全体の企画と管理が、重要であることを指摘しました。ご関心ある方は、お読みください。(2011年2月2日)

連載、社会のリスク論第6回が載った、月刊『地方財務』3月号が、発行されました。今回は、第4章「政府の役割の変化」第2節「個人の責任、政府の責任」です。
リスク対策が進み、政府による対策は拡大しました。それは、個人責任が社会の責任になる変化です。しかし、対策が拡大すると経費がかかり、それだけ国民の負担が大きくなります。また、阪神淡路大震災が示したのは、公助だけでは被災者を救えないということでした。そして、緊急性が少ないのに救急車を呼ぶ人がいます。本人は無料ですが、その費用は住民が負担しているのです。
各人が加入する保険ならば、給付・保障が増えれば、本人の掛金が多くなります。しかし、公助では、負担が不明確になります。自己責任と公助をどう組み合わせるか。これが課題になっています。これらの点を議論しました。(2011年3月2日)

連載「社会のリスクの変化と行政の役割」第7回が載った、月刊『地方財務』4月号が発行されました。異動の前に、校正まで終わっていたので、載せてもらいました。もっとも、肩書きは前のままになっています。
今回は、現代の「福祉国家」が、「安心国家」に転換しつつあることを論じました。そして、その社会的背景も、世界の先達の論考を参考に、議論してみました。自分では、力作だと思っているのですが。
続きは、しばらく書けそうもないので、いったん中断します。申し訳ありません。(2011年4月2日)

(拙稿、日本行政学会年報、その2。連載再開準備)
ところで、森田朗先生の「東日本大震災の教訓と市民社会の安全確保」では、フィンランドの総合的な危機管理体制「社会機能確保のための戦略」が、紹介されています。
そこに、政府が守るべき3つの価値、国家主権、社会の安全、市民生活が掲げられ、9つの脅威(リスク)が列挙されています。電力と通信網(社会インフラ)の障害、市民の健康と経済生活の障害(不況、大規模な感染症)、社会全体の経済危機、大規模な事故や自然災害、地球環境の変化、テロと組織犯罪、不法移民や禁制品の密輸、外国による政治的軍事的圧力、軍事的侵略です。

私は、連載「社会のリスクと行政の役割」(月刊『地方財務』2010年10月号~2011年4月号)で、私たちを取り巻く新しいリスクを、原因と被害の種類によって分類し、表(資料1-1)にしました。それは、武力・テロ、自然災害、事故、犯罪、環境問題、健康問題、経済社会活動の混乱、社会生活問題、経済問題の9つです。9つは偶然の一致ですが、私の取り上げた範囲と項目とほぼ同じことに、安心するとともに満足しました。
私はさらに、これら9つのリスクを対策の観点から、武力攻撃事態や災害への備え、事故や犯罪への対策、健康の危険への対策、社会生活の危険への対策の4つに大括りして、論じました。
連載は、私が大震災対応に招集され時間がなくなって、中断したままです。切りよく、第1部の「社会のリスク」を終えたところで中断しています。そこで、第2部の「行政組織のリスク」(かなり準備してあったのですが)を、大震災の経験を踏まえて、書きなおすことを計画中です。長尾編集長、もう少しお待ちください。