立教大学大学院講義

今日は、20時過ぎから、立教大学大学院(21世紀社会デザイン研究科)で講義をしました。危機管理論の講座の一コマを頂いて、「豊かな社会の新しいリスク」を、お話ししてきました。今、連載している内容の、一部です。日本大学大学院では、春学期10数回を使った内容です。
それを、1時間半の授業、しかも質疑応答の時間も取らなければならないので、1時間ちょっとに収めなければなりません。ポイントだけをお話しするとしても、工夫が必要です。なかなかうまくは、できませんねえ。早口になり、脱線したりと。反省。
それでも、皆さん熱心に聞いてくださいました。少人数だと、聴衆の反応がわかって、しゃべりやすいです。もっとも、私のリスク論は、普通の危機管理論とはかなり視点が違うので、とまどわれたと思います。
このような時間に勉強しておられることに、敬意を表します。私も、駅で軽く晩ご飯を食べて、出かけました。お腹がすいては、力が出ませんからね。今回の講義も、中国出張の前に準備しておいたので、あわてることなく、しゃべることができました。

2010.11.13

今日は、日本大学大学院で講義でした。夕べ、中国から帰ったばかりですが、出発前に準備しておきました。
地域を経営するという観点から見ると、地方政府(市役所)は何をしなければならないのか。これまでは、財とサービスの提供が政府の役割だと、説明されていました。しかしこれは、経済学からの見方でしかありません。また、財とサービスを行政が提供しなくても、民間企業やNPOに委ねてもよいという行政改革論も盛んです。しかしこれも、政府・行政の役割が財とサービス提供であると、狭い範囲でしか見ていません。
今日本の地域社会で問題になっていること、それは活力の低下と暮らしの不安です。公共施設や公共サービスを充実することでは、解決しません。
財とサービス提供に関しては、企業活動やNPOなど非営利活動がうまくいくように条件整備をすることも、政府の仕事です。そして、活力と安心のためには、人とのつながり、地域活動などをどのように充実していくか。これが政府に問われています。「まちづくり」や「地域おこし」「地域の活性化」という言葉で、財とサービスの提供ではない地域の活性化や安心づくりが、各地で試みられています。しかしまだ、行政学や地方行政論では、体系だった議論はされず、教科書の中でも占める定位置を与えられていないようです。
もちろん、それらは市役所が提供できるものではなく、住民の参加や住民の活動によって、できるものです。ここに、難しさがあります。

変わらない年功型賃金制度

7日の日経新聞連載「検証、ニッポンこの20年。長期停滞から何を学ぶ」は、「進まぬ脱・年功賃金」でした。年功型から成果重視への賃金制度改革が、この20年の間、足踏みしています。その結果、専門性の高い人材を思うように採用できず、外国企業への流失も後を絶たないと指摘しています。競争力の源泉である人材確保に、苦しんでいるのです。
1993年に富士通が成果主義賃金制度を導入しましたが、うまくいきませんでした。2002年にはNECが、2004年には日立製作所が、裁量労働制を導入しましたが、あまり広がりませんでした。「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」は、2007年に導入を見送りました。中途採用の実施企業の割合が、2007年度の44%から、2009年度の33%に減ったという数字もあります。
同一労働同一賃金や職種別賃金への改革は、進んでいません。企業別組合が、壁になっているとの指摘があります。高度成長期には適合的だった制度が、そのあと条件が変わったのに変革できていないのです。

都市の人間関係の変化

高澤紀恵著『近世パリに生きる-ソシアビリテと秩序』(2008年、岩波書店)が、興味深かったです。
16世紀から18世紀にかけてのパリが舞台です。ソシアビリテ(人と人との結合関係)に注目し、都市の社団(住民の集まり)が様々な都市機能を担っていたのが、徐々に王権に組み込まれていく過程を描いています。近世パリにおける都市社団は、街区や教区という近隣関係、あるいはギルドという職業集団です。それが、治安、防衛、徴税、ごみ処理などの機能を果たしていました。代表者を選び、自らの負担と奉仕で、処理していたのです。しかし、次第に王が任命する官職と組織に取って代わられます。それら機能の主体でもあった住民は、統治の客体に転化するのです。
都市のソシアビリテという観点からの、都市統治・都市自治論です。政治史では、法令や制度から見た政治と行政が主ですが、それでは実際の姿が見えてきません。一方、権力者の伝記や市井の住民の日記による歴史研究もありますが、それにも限界があります。社会的な機能を果たす人間関係から見ることは、極めて有意義ですが、資料から検証するには大変な困難があります。この本は、それに成功しています。
類書に、結社の世界史シリーズ(山川出版)、第3巻福井憲彦編『アソシアシオンで読み解くフランス史』(2006年)などがあります。こちらは買ったまま、積ん読状態になっています。反省。

自由の国の不安、アメリカのデモクラシー

渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』(2010年、岩波新書)が、勉強になりました。渡辺教授は、文化人類学者です。社会学から見たアメリカ政治とアメリカ社会論です。自由と自助(自己責任)を信奉する国民、自らの出世や富を求め激しい競争を続ける国民、そして課題を解決するために結社をつくり政治を動かす国民。そのエネルギーが今日のアメリカをつくり、世界の憧れとなってきました。しかし、その一方で、格差、差別、対立も生んできました。自由が行き着いた先の、孤独な個人主義もです。
教授は、ジョセフ・デュミット教授の論文を紹介し、新しい病が増えていることを指摘されます。米国精神医学会による『精神疾患の診断・統計マニュアル』で見ると、1986年に182だった分類は、1994年には294へと細分化され、病が増えているのだそうです。国立健康統計センターの報告(2007年)では、情緒・行動面で問題があると親に見なされた就学年齢の子ども(4~17歳)は、14.5%にもなります。うち3分の1が処方薬の治療を受け、ほぼ同数がカウンセリングなど処方薬以外の治療を受けています。国立精神衛生研究所の報告(2004年)では、18歳以上のアメリカ人の4分の1以上が、精神疾患を患っているとしています。
渡辺教授は、「今日の新自由主義的な文化や制度のもとでは、自らの精神性や身体性という、個人に最も直近なはずの領域でさえ、自らの責任や判断によって統治・所有することが困難になっているという逆説に他ならない」と述べておられます。
自由と豊かさにおいて、日本はアメリカの後を追いかけてきました。日本社会は、このような事象も後追いするのでしょうか。