お金で買えない感覚資源

昨日の続きです。原研哉さんは、次のようにも言っておられます。
・・日本は、石油や鉄鉱石のような天然資源に乏しい・・しかし、今日においては、天然資源の確保に汲々としてきたことが、むしろプラスに転じはじめている。もしも日本に石油が豊富に湧き出していたら、おそらくは環境や省エネルギーに対する意識は、今日ほどには高まってはいなかったはずだ・・
マネーという富はもっと巨大にこの国に蓄えられ、医療も、教育も、通信も、すべて無料にで国が提供するような裕福な国になっていたかもしれないが、その豊かさは、やがて訪れる次の時代に対応できず、悲惨な衰退を運命づけられていたかもしれない。
幸いなことに、日本には天然資源がない。そしてこの国を繁栄させてきた資源は、別のところにある。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。
天然資源は今日、その流動性が保障されている世界においては買うことができる。オーストラリアのアルミニウムも、ロシアの石油も、お金を払えば買えるのだ。しかし文化の根底で育まれてきた感覚資源は、お金で買うことはできない。求められても、輸出できない価値なのである・・
私は、拙著「新地方自治入門」で、地域の財産として、自然環境、公共施設、制度資本のほかに、関係資本や文化資本を取り上げました。

日本人の日常の美意識は資源

昨日の続きです。原研哉さんの連載第1回「美意識は資源である」(「図書」2009年9月号)から。
・・成田空港に降り立ち、素っ気ない空間を入国審査所に向かって歩き始める時、きまって感じることがある。空間は面白みがなく無機質だが、なんと素晴らしく掃除の行き届いた場所だろうかと。床のタイルはどこもピカピカで、床の上で転がり回ってもさして服は汚れないのではないかと思うほど。カーペットを敷きつめた床も清潔だ。仮にシミがあっても、それを除去しようと最善の努力をはらった痕跡がある。おそらく掃除をする人は、仕事の終了時間が来ても、モップや掃除機をさっさと片付けたりしないで、切りのいいところまで仕事をやりおおせて帰るに違いない。この丁寧さが、他国から帰ってくると切実に感じられる・・・
掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら、「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が、根底にある。日本とは、そういう国だ。
これは、海外では簡単に手に入らない価値観である・・
特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裏に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。
もの作りに必要な資源とは、まさにこの「美意識」ではないかと、僕は最近思い始めている。これは決して比喩やたとえではない。ものの作り手にも、生み出されたものを喜ぶ受け手にも共有される感受性があってこそ、ものはその文化の中で育まれ成長する。まさに美意識こそ、ものづくりを継続していくための不断の資源である。しかし一般的には、そう思われていない。資源と言えば、まずは物質的な天然資源のことを指す・・

衆参の逆転

13日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅先生の「再議決を封印するなかれ」でした。
・・参院における与野党逆転のため、基本的に法案は何も通らない、動きのとれない国会だ、というイメージがむやみに流布している。政治は停滞し、国民不在の政党間のやりとりしか展望できないかのような話ばかりである。これは誠に奇妙な事態であり、あえて言えば、一種の世論操作の匂いすらする。これでは、日本の政党政治に半ば死亡宣告をしているようなものである。
確かに新しい事態が生じたことは事実であるが・・新しい事態に対する戸惑いと興奮は理解できるにしても、「悪乗り」は究極的には政党政治の首を絞めることになろう。
「悪乗り」というのは、憲法はこうした事態に対する対策を定めているからである・・

日本が提示する生活文化

グラフィックデザインで有名な原研哉さんが、岩波書店PR誌「図書」2009年10月号に、連載「欲望のエデュケーション」の第2回「飽和した世界に向けて」で、次のようなことを書いておられます。
・・日本は多くの工業製品を世界に輸出する工業国であるが、その生産物がいかなる文化を育むかという視点でものを考え、表現することが少ない。文化は美術・芸術のみに根ざすものではなく、生み出される製品からどんな暮らしや営みが芽生え、またそれがどのような生活環境を育んでいくかを見極め、提示していくことが、世界の未来に影響を持つ。
これからの世界は、単にマネーの力ではなく、文化をともなった影響力のせめぎ合いになる。ものづくりの総量やGDPの大きさだけでは、影響力を持ち得ない。日本は、経済はもとより、人がいかに豊かに暮らしていくかというイマジネーションにおいても、大きな存在感を持たなくてはならず、そのためにはまず、自分たちのつくり出すものの文化的な意味についての多角的な考察やヴィジョンが不可欠になる・・・

校長の仕事・点検と卒業式

今日はまず、学生の「点検」から。朝8時半に、在校生全員が整列し、私が点検して回るのです。今日は、校外学習に行っている救急科を除く3科約130名です。学生は合計6列、横一線に並びます。
学生は、隊長(学生の代表)の号令の下、隊列を組んで、前進や整列を行います。私は、指揮台の上で敬礼を返した後、台を降りて、学生の列の前と後ろを歩いて、点検するのです。学生はきびきびした動きで、ほれぼれします。
また今日は、救助課60名と予防課45名の卒業式でした。私は、卒業証書、表彰状などを授与するとともに、告辞を述べます。これまた、気持ちのよい緊張をします。その後、卒業生を見送るのですが、学生の中には、目を潤ませている人もいました。
「中年のおじさんが?」と、思われるでしょうが。約2か月間、寮生活をしながら勉強したことを、思い出しているのでしょう。試験もあり、結構大変なのです。現場に帰ったら、幹部として活躍してくれることでしょう。
明日は、幹部科26人の卒業式です。