伊藤滋著「面影の街・追憶の家」に、昭和初期の中野の町の暮らしが、書かれていました。先日古本屋で見つけた本で、定価が書いてないので非売品なのでしょう。その後、出版社ぎょうせいから、「昭和のまちの物語」として発売されているようです。
家の近くなので、興味を持って読みました。そして今日、そこに載っている先生の手書きの地図をたよりに、「探検」に行ってきました。地下鉄丸ノ内線の、新中野駅と中野富士見町駅にかけてです。先生が住まわれたのは、昭和6年から18年までです。田畑が宅地化され、住宅が広がっていったとのことです。
道路はかなりその当時と同じなので、ほぼ位置はわかりました。しかし、ビルやマンションが建って、風景はまったく違っています。70年で、これだけの変化があるのかと、びっくりしました。そのあたりは、銀座や新宿といった盛り場、商業地ではありません。武蔵野の畑と住宅地だったのです。それでも、これだけ変化したのです。これが東京の、そして日本の近代化と繁栄の現れなのですね。杉並区の人口は、大正14年に7万人、昭和5年に13万人、10年には19万人になっています。5年ごとに6万人増えています。昭和40年には54万人で、現在は53万人です。
わがふるさとだと、70年前とそう違わないと思われる風景が広がっています。もちろん、道路は広くなり、学校や役場も立派になってはいますが。町の風景と田舎の風景の違い、エネルギーの違いを感じます。
さて、そこから地下鉄で2駅のところにあるわが家は、新築後2年検査を受けました。このあたりも、70年前とは大きく違っているのでしょうね。これから70年後は、どうなっているのでしょうか。私は、それを見届けることができませんが。
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金融危機から10年
20日の朝日新聞変転経済は、「金融危機10年」第1回でした。1か月の間に、三洋証券がコール市場で初のデフォルトを起こし会社更生法申請、北海道拓殖銀行が都銀では初の経営破綻、山一証券が大手では初の自主廃業、そして仙台の徳陽シティ銀行が経営破綻し、全国の多くの銀行で取り付け騒ぎが起きました。心配になった預金者が、ほかの銀行にも預金を下ろしに集まったのです。
取り付け騒ぎを静めるために、政府は、預金と銀行間取引の安全を保証する声明を出しました。その後、金融システムを守るために、巨額の公金が投入されました。破綻した銀行を、一時国有化することをも行われました。今も続いています。
いくつもの課題と教訓が残りました。1990年代初めから、いくつかの銀行が経営危機に陥り、また予備軍もいるといわれ、銀行(金融システム)を守るために公金を投入すべきだという議論はありました。しかし、なかなか実現しませんでした。大議論をして、住専処理のために入れたのが1995年、6850億円でした。最終的には、70兆円を用意しました。もっと早くに大きな額で投入しておれば、被害は少なかったのではないかといわれています。
もっとも、なぜ銀行だけを特別扱いするのか(普通の企業が倒れても公費では救いません)という意見も強く、また銀行の方も「自分のところが危ないと思われる」という意識で最後になるまで自らは救いを求めませんでした。大手銀行や証券会社が倒産し、取り付け騒ぎが起きたからこそ、巨額の公費投入が、国民の理解を得たのです。
また、それまでは破綻させることなく護送船団で守る、どこかの銀行に救済合併させるというのが行政の方針でした。そして、行政当局が、どの程度それら金融機関の経営悪化を把握していたのか、という問題も指摘されています。
バブル崩壊から立ち直りつつあった日本経済に、追い打ちをかけたのが1997年の金融危機でした。護送船団方式という行政のあり方を変え、危機の場合は巨額の公金を投入しなければならないという経験を残しました。その後、破綻した企業を、国策会社(産業再生機構)が再生するという手法も導入しました。大学生にとっては、小学生の時の話で、知らないでしょうね。行政学にとっても、大きな教材です。連載に期待しましょう。
2007.10.20
今日は、4回目の授業。だんだん乗ってきたのですが、来週からは、早慶戦や祝日などで、3週続けて休講です。春学期は連休に、小さな宿題を出しました。今回もいろいろ考えたのですが、やめました。
地方版経済財政諮問会議
平成19年10月27日に、第1回目の「経済財政に関する地方会議」を、香川県高松市で開催します。地方の声を諮問会議の審議に反映させるため、民間議員を中心に地方に出向いて、地域の課題について議論を行う場を設けるものです。いろんな方のご協力を得て、準備中です。
ブラックマンデーの意味
19日の日経新聞は、「ブラックマンデーから20年」を特集していました。1987年10月19日、ニューヨーク株式市場が、これまで最大の2割も暴落しました。1929年の大恐慌の時(10月24日、ブラックサーズデイ)が13%の下落ですから、いかに大きかったかがわかります。しかし、アメリカ経済も世界経済も、この時は大恐慌に陥ることなく、復活します。
だから、ブラックマンデーそのものは、経済史に大きく扱われていないと思います。意味を持つのは、なぜ起きたか、そしてアメリカはそれにどう対処したかです。さらに重要なのは、その後、世界経済はどう変わったかです。
暴落の背景となった経済条件はありますが、犯人の一人は、コンピュータのプログラム取引=株価が下がると自動的に売りを出す仕組みでした。
1980年代に日本は、1人当たりGDPでアメリカを抜きます。財政と経常収支の大幅な赤字に悩んでいたアメリカは、市場の信認を取り戻すため、財政再建に取り組みます。それに成功したグリーンスパンFRB議長は、高い評価を得ました。
一方、日本はジャパン・アズ・ナンバーワンとおごり、バブル経済に入ります。2万円台だった平均株価は、4万円近くまで上がりました。しかし、バブルが崩壊し、株価は8千円を割り込むところまで落ちました。もっとも、1991年にバブルが崩壊したのに、最安値をつけたのは2003年です。これが、失われた10年といわれるゆえんです。現在でも1万7千円前後です。そして、実物経済を含めて、勝者と敗者が逆転しました。
また、金融のグローバル化が進み、金融工学が進み、市場が政府を振り回すようになりと、いろんなことが進みました。経済学、経済財政策にとっても、進歩の20年だったのではないでしょうか。実態が大きく変化することで、学問と行政が後を追ったのです。
20年というのは、結構長い年月です。しかし、同時代を経験した私には、この間のことは、つい最近の出来事と感じられます。でも、学生にとっては、生まれた頃の話ですね。新聞を読んで勉強してください。