評価と競争

若い人に聞いたら、今の男子大学生は、紺のスーツを持っているのだそうです。おしゃれではなく、生活のためにです。それは、学習塾で教師のアルバイトをすると、スーツにネクタイ姿を要求されるのだそうです。あるところでその話をしていたら、次のように発展しました。
「それに比べ、小中学校の先生って、スーツじゃないですよね」
「ネクタイもせず、運動服のジャージも多いよ」
「礼儀は、正社員より派遣会社の人の方が立派だと聞いたよ。そうでないと、受け入れてもらえないから」
「仕事の成果も、派遣や請負の方が良いらしい。そうしないと契約を打ち切られるから」
「学校と塾も同じだね。塾は成果が評価される。生徒の成績が上がったか、どれだけ有名校に合格させたか。学校は評価がないからだめだね」
「派遣の方が、あぐらをかいている正社員より、給料が上の時代が来るだろうね。いくつかの業界ではそうなっている」
「そうでしょう。商品売買の場合、長期契約よりスポット買いの方が高いですから」

国際化

3月2日の朝日新聞夕刊連載「歌舞伎町のアフリカ人」は、外国人犯罪の増加に対応できていない行政を、取り上げていました。
経済水準の高い日本に、低い諸外国からの流入は止まらない。通訳を介した取り調べでは、核心に迫れない。中国人の考えは中国人の方が分かる。ナイジェリア人のことはナイジェリア人。外国人の捜査員が必要だ、という主張です。カナダでは、入国管理の幹部に中国人を採用し、南アフリカでは中国人の警察官が活動しています。

2007.03.02

2月16日の諮問会議での、市場化テストについての議論を紹介します。
八代議員が民間委員ペーパーに基づき、次のように主張しておられます(議事要旨p15)。
「落合委員長から説明があったように、市場化テストは、本来英語のマーケット・テスティングの直訳であり、決して市場原理だけに基づくものではない。市場という道具を使って、独占的な官の事業を競争にさらすということがポイントである。その結果、質の高い公共サービスをより安いコストで提供するものを選定する制度であり、民営化とは実は違うものである。
市場化テストは、他国の例を見ても官民の勝敗は五分五分。官が競争入札で選ばれた場合には、官の効率性が証明される。民が選ばれた場合には、官の下で民に包括的に委託され、事業運営に民間の創意工夫が活かされるわけであるから、いずれにしても官の責任で事業を行うことは変わらない。その意味でこれは民営化をすべきかどうかをテストするものではなく、あくまでもそれは別のところで判断していただくもの。官の責任でやるビジネスについて、実際の運用まで官とするか、それとも民に委ねるかをテストするものである。
したがって、各府省にこのようなテストを拒否する正当な理由はない。官業として続ける必要性を示すためにも、原則としてテストを受けるべきだ」
落合官民競争入札等監理委員会委員長は、公権力の行使とテストの対象範囲について、次のように主張しておられます(議事要旨p14)
「公権力の行使を伴う業務についても、これは対象になるんだと法律上も明らかであり、これを公権力だから云々という形で抵抗するというようなことはやめて、これも積極的に対象に含めていくべきであると考えている。「例えば」というところにあるが、不動産登記簿等の登記事項の証明という業務は公権力の行使であるが、これを全部市場化テストの対象にして行うということを法務省で決め、監理委員会としても大いに評価(アプリシエイト)した。そういうことも行われているので、公権力だからという仕分けは、是非やらないようにしていただきたい。
 また、民間の創意と工夫が活かせるような形で対象事業が定められないと、コストの節約も非常に難しい。つまり対象業務が非常に狭いと創意と工夫を働かせる範囲も狭くなり、市場化テストを導入した意味が余り出てこないということがありますので、対象事業の範囲は極力創意と工夫が活かせるような広い範囲にするということを考慮していかなければいけない。契約も単年度ではなく、複数年という形で創意と工夫が実際に活かせるような形のものにすべき」
これについて、八代議員も次のように話しておられます。
「駐車違反の取り締まりのように警官自らがやっていた警察署の業務についても、これは事実行為として民間に委託された場合もあるわけだから、必ずしも現業部門に別に特化することはない」

新しい仕事39

今日2日は、再チャレンジ支援総理大臣表彰の手続に入りました。また、人事院が、国家公務員の中途採用試験概要を発表しました。総務省の発表によれば、フリーターが、14万人減って187万人となりました。ニートも、2万人減って62万人になりました。
総理表彰の選考委員には、清家篤さん(慶應義塾大学教授)、志太勤さん(シダックス株式会社 代表取締役会長)、竹中ナミさん(社会福祉法人プロップ・ステーション理事長)、原早苗さん(埼玉大学非常勤講師)、宮本みち子さん(放送大学教授)、柳生博さん(日本野鳥の会会長)にお願いしました。再チャレンジ支援対象の各分野に、お詳しい方です。それぞれの方に就任のお願いに上がる際に、いろいろお話を聞くことができました。私の知らない世界ばかりなので、勉強になります。柳生博さんは、NHKの「生き物地球紀行」をよく見ていたのですが、ご本人に会うのは初めてです。1時間にわたり、お話しできました。担当者の「役得」ですね。

教員が変わったのか、社会が変わったのか

23日の朝日新聞三者三論は、「教員の質落ちてるの?」でした。野口克海さんは、次のように主張しておられます。
教員の質が落ちたかどうかを論じる前に、教員に必要な資質とは何かを考える必要がある。第一に、教える内容を理解し、わかりやすく教えることができるかどうか。第二に、子どもの心が読めて、子どもとの人間関係がつくれるかどうか。三つめはきちんと出勤し、事務処理をこなせるか、四つめは保護者や地域の人たちとの人間関係を築けるかどうかだ。
・・・個々の先生たちの能力は落ちていないとしても、状況の変化に十分対応できず、悩んでいる先生が多い。学校をとりまく状況の変化とは、端的に言えば、学校の社会的地位が相対的に下がったということだ。昔は、学校は子どもにとって知識や情報の宝庫で、「お母さん、きょう学校でこんなことを習ったよ」と目を輝かせて報告する子どもがいたものだ。いまや学校のほかにもっと豊かな情報や楽しい遊びがある。最近は、自分のほうが先生より学歴も学力も上だと思っている保護者が学校を見下すケースも目立つ・・。
その通りだと思います。近年の教育論議、学校批判は、学校教育に何を期待しているかが混乱したままで、建設的な議論が進んでいません。この指摘のように、問題をいくつかの局面に分けるべきです。まずは前段のように、学校の中での教員に要求される能力です。これは、物差しで測れると思います。
問題は、後段です。日本社会は、学校教育に何を期待しているのか、これをはっきりすべきです。私がいつも指摘するように、発展途上国では、校舎と教員と教科書をそろえれば、教育は成り立ったのです。家庭や地域社会にない知識を与えてくれ、世間より学歴の高い先生は尊敬されたのです。今や、知識だけならテレビや本、インターネット、さらには塾が教えてくれます。教師より学歴の高い親もたくさんいます。これまでのやり方では、尊敬されず、期待されないのです。
発展途上国としての日本の学校教育は、大成功しました。しかし、成熟社会となったときに、学校の役割変化に失敗しているのだと思います。社会が変わったのに、学校の方は変わっていない。だから、学校の評価といった場合に、何をもって評価するかが定まっていません。期待する役割をはっきりしないと、評価できないのです。
また、父兄もその状況を理解していません。みんな経験者なので、1億人が教育評論家です。それはよいことなのですが。父兄が言う「昔はこうでなかった」という批判は、半分正しく、半分間違っています。すなわち、学校が変わったのではなく、社会が変わったのです。
では、これからの学校に期待される役割は何か。知識を教えるだけなら、金持ちの親は塾に行かせたり、家庭教師をつけるでしょう。しかし、私はそれでは、よほどうまく育てない限り、社会で生きていく人間力はつかないと思います。いろんな子どもがいる集団生活の中で、友達もいればいやな子もいることを知ります。また、いろんな成功と挫折を経験して、人間力をつくっていく。これが、学校の役割だと思います。いずれ社会に出ると、学力も必要ですが、その前に定時に出社し、集団生活をしなければなりません。いろんな誘惑に負けず、努力する意思が必要です。それらの方が、学力より必要なのです。
実は、今までも人間力をつけさせる機能は大きかったのですが、知育の陰で隠れていたのです。学力試験と通信簿は、主に知識を問いました。また、人間力は学校の外、地域社会(放課後)での遊びの中で身につけたのです。それが希薄になったことで、人間力を身につけさせることについて、学校への期待は大きくなったのです。(2月24日)
27日の日経新聞経済教室は、白井美由里助教授の「プレミアム商品への消費者心理、主観的満足より品質重視」でした。
わが国の製造業は1960年代以降、品質向上とコストダウンを進め、さらに80年代のプライベートブランド台頭で、同じ商品カテゴリー内での高価格帯と低価格帯の商品を品質で区別するのは難しくなった。そのため90年代以降、消費者が商品を選ぶ要素として、価格のウエイトが高まった。この傾向は豊富な品揃えを誇る百円ショップの成長で一層強まった。ところが、最近新しい変化が見られる。プレミアムを冠した高価格な商品の増加に気づく。仮に低価格品と高価格品の品質に大差がないのなら、消費者は高価格帯の商品に何を求めているのか・・・。興味ある論文です。原文をお読みください。(2月27日)
28日の産経新聞「正論」は、坂村健教授の「自らの力で変われる日本を目指して」でした。そこでは、イノベーションが重要であるが、目標指向型はもはや古いということを、指摘しておられます。
従来型の産業政策は、何か開発目標を定め、それに向かうシナリオを練り・・・という目標指向型のスタイルだった。しかしインターネットの世界的普及とそれを背景とするグローバル化により、変化のスピードと範囲は爆発的に拡大し・・・変化の影響で、いつ目標自体がひっくりかえるかわからない。欧米のイノベーション志向政策の背景には、そういう状況の中では目標指向型の政策立案自体が無意味だ、だから政策スタイル自体をイノベーションしないといけないという強い意識が感じられる。
変化に対応でき、さらにその中で主導権を取って「イノベーション-破壊的な創造」を行える人・組織・国の形をどのように作るか。強いて目標というなら「イノベーションが盛んに生まれる国にする」ことであり、具体的なターゲットはむしろ、イノベーションに必要な多様性と人材や資源の機動性を阻害する要因となる。目標指向型の政策立案はもはや過去のもの。日本も目標指向型から環境整備型に舵をとることを、はっきりと国民に示さないといけない・・・。(2月28日)
昨日書いた坂村先生の主張を読んでいて、なるほどと思いました。私は、発展途上国が終わった日本は、これから民間や公がそれぞれ正しいと思うことを自由に追求する社会にすべきだと思っています。もちろん、その際にはルールを決め、事後監視、救済も必要です。しかし、イノベーションが必要としても、官が目標を決めてそれに向かって社会ががんばるのは、変だと思っていました。それだと、これまでの官が目標を決め民が従う社会と同じなのです。
坂村先生の主張で、納得しました。官がすべきなのは、目標を決めるのではなく、障害を除去するのですね。もちろん、所得再分配とか社会保障・安全などで、官が決めなければならない目標はあります。しかし、イノベーションの目標は、官が決めることができるものではないでしょう。
あわせて、先日の諮問会議を思い出しました。2月16日の会議で、規制改革が取り上げられました。その際、草刈規制改革会議議長が、次のような発言をしておられます(議事要旨では7ページ)。
「規制改革会議の運営方針等について報告する・・。重要課題解決の阻害要因、つまり消費者、生活者のニーズの阻害要因となっている規制は、当然のことだが、成長阻害要因であるので、「撤廃・緩和」を果断に進めていくというのが基本的な考え方になる」