カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

尾身茂さん、感染症規制と社会活動

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第26回(3月27日)「オミクロン株」から。
・・・2021年12月、これまでと比べて致死率は低いものの伝播力の強いオミクロン株が出現した。22年に入ると瞬く間に広がり、私たちはこれまでとは異なる感染症だと感じるようになった。
感染症対策重視の「強い対策」から、オミクロン株に合った「弾力的対応」にどう移行すべきか、議論を始めた。
ちょうどその頃、まん延防止等重点措置の適用を巡って分科会メンバーの一人で経済学者の大竹文雄氏から異論がでるようになった。
コロナの致死率がかなり低くなってきているので「まん延防止」の発出条件を満たしていないのではないかとの意見だった。これ自体、的を射た指摘だった・・・

・・・社会生活を少しずつ元に戻すという議論は、社会活動再開に伴う死亡者などの犠牲をどこまで許容するかという価値観の問題につながる。科学的分析ではその問いには答えられない。最後は選挙で選ばれた政治家が決めるべきだとの考えが分科会の総意だった。
このため、4月27日の分科会では、感染症対策と社会経済活動の重点の置き方によって、4つの選択肢を政府に示し、その後の分科会でさらに議論を深め、最終的に政府が決定することを求めた。
ところが政府は、選択肢だけを示されても困る、専門家で1つに絞り込んでほしい、と言ってきた。
私たち専門家は、感染症法上の位置づけを「2類相当」から「5類」に移行する、社会全体にとって極めて大事な「出口戦略」こそ、経済専門家、自治体などが参加する分科会でしっかり議論すべきだと思っていた。

1カ月かけて練り上げた「オミクロン株に合った弾力的な対応」とスムーズな「平時への移行」について、7月14日に開かれた分科会で議論しようと考えたが、政府は応じなかった。
どうしてこのような「距離感」が出てきたのか。オミクロン株以前は、感染症対策に軸足が置かれていたため、専門家が政策作成において中心的な役割を担ってきたが、社会・経済を回す時期になってきたので、これからは政治家がリーダーシップを取るべきだと政府は考えたと思う。
しかし同時に、参議院選挙が間近になっていたこの時期、社会全体が高い関心を示すこのテーマに、政府主導で決断した場合の影響も考えたのかもしれない・・・
・・・政府は23年1月27日、大型連休明けの5月8日から「5類」に移行することをようやく決定した・・・

尾身茂さん、専門家と政府

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第25回(3月26日)「東京五輪」から。
・・・感染対策と社会経済のバランスをどううまくとるか。政府と専門家の考えは度々、微妙に違った。特に感染状況が厳しくなると、その差は明らかになり、マスコミでも大きく取り上げられた。代表的なのが「Go To キャンぺーン」と東京五輪だ。
政府は、コロナにより打撃を受けた観光関連産業などを支援するため、2020年7月ごろ、東京などで感染拡大が起きていたにもかかわらず、「Go To」の開始を検討していた。
7月16日、感染症対策分科会が開かれた。当初、「Go To」が議論されるはずだったのだが、会議開始直前、報道を通じて22日から「Go To」が始まるとの決定を知らされた。
「分科会は何のためにあるのか、ただ政府の決定事項を追認するためだけなのか」。私を含め専門家は大いに不満だったが、22日開始を覆すことなどできなかった。

11月に入ると再び感染が急拡大し、医療の逼迫の懸念が高まってきた。20日には、こうした地域を対象として「Go To」を中止するよう政府に求めた。
もちろん中止によってダメージを受ける事業者には財政支援も同時に検討するよう提言には付け加えたが、残念ながら政府はすぐには動かなかった。
12月になると再び緊急事態宣言を発出せざるを得ないほど状況は悪化してきた。14日、菅義偉首相は全国一律で「Go To」休止を宣言した・・・

・・・1年延期になった東京五輪への対応はさらに厳しいものだった。
当初、世界最大のスポーツイベントについて発言するつもりはなかった。実際、21年3月、国会に呼ばれ野党の議員から「(感染状況が)どの程度になればオリンピックは開催可能か」と質問され「開催について判断、決断する立場にない」と答えていた。専門家として矩(のり)を踰(こ)えるべきではないと思っていた。
しかし開催まで2カ月を切った6月に入ると、そうした姿勢を転換せざるを得なくなった。7月の4連休、夏休み、お盆が重なり、その上、感染力の強いデルタ株の出現を考えると、開催の前後には緊急事態宣言を出さざるを得なくなると判断したからだ・・・

・・・私たちは毎夕、都内の大学の会議室に集まり、どこまで踏み込むのか、どのようなデータを出すか、どんな言葉を使うか、など深夜まで議論を重ねた。
我々の責任だということは頭ではわかっていた。しかし、導き出す結論に対する国内外からの反応も予測できた。私自身、最後まで迷う気持ちがどこかにあった。
その時、メンバーの一人からメールが届いた。「ここで(五輪に対する見解を)出さないなら、みな委員を辞めたほうがいい」。この言葉で私は覚悟を決めた。
6月18日、専門家有志26人により「無観客五輪」を提案した。何度か「ルビコン川」を渡った。振り返れば東京五輪開催を巡って渡った川が最も深く、激流だった・・・

尾身茂さん、動かない中国政府

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第20回(3月21日)「SARS」から。
・・・21世紀に入って最初に世界を揺るがした新興感染症が、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)である。日本は大流行を免れたが、世界をみれば、30もの国や地域で半年間に8000人を超える症例と800人近い死亡例が報告された。

事の始まりは03年2月初旬に遡る。中国広東省地域で致死率の高い原因不明の呼吸器感染症が流行しているとの情報が、複数の非公式な経路から世界保健機関(WHO)西太平洋事務局にもたらされた。100人以上が死亡した可能性があるという。
早速、中国政府に照会した。これまでなかったタイプの肺炎が流行している点は認めたが、患者数や死者数、状況認識において、われわれが得た情報とは食い違っていた。
「WHOの専門チームを広東省、香港に派遣したい」「広東省における疫学情報などをオープンにしてほしい」。2月20日に地域事務局長の私の名前で中国政府に正式な文書を送った。
その後、WHOの担当官を北京に派遣、2週間かけて当局との交渉にあたらせた。しかし有益な情報を得ることはできず、専門チームの広東省への受け入れも認められなかった。
後日振り返れば、SARSウイルスが広東省から香港に伝播したのが2月21日。その後、香港からハノイ、シンガポールなどへと世界各地に広がった。
最初に照会した段階で中国政府がきちんと情報を提供してくれていれば、その後の展開は違ったものになっていただろう・・・

・・・カナダのトロントにおいて香港旅行から帰国した2人の感染を確認。その後、治療にあたった病院で感染が広がったことで、一気に緊張が高まった。グローバル化時代には、航空機を介し感染はあっという間に世界中に伝播する。
何とか事態を打開しなければならない。
3月20日、私は香港に飛び中国の張文康衛生相(日本の厚生相にあたる)に直談判することにした。面会は彼の泊まるホテルで通訳を含めた3人だけで行った。

江沢民元国家主席の主治医という異色の経歴をもつ張氏とは旧知の間柄だった。私は「詳細な情報の迅速かつ定期的な提供と、WHO調査団の受け入れを中国が合意してくれないと、さらに多くの命が失われる。その上、国際社会の中国への信頼も損なわれるだろう」と、強い口調で述べた。
誠実な張氏は時折、困った顔をしながらじっと聞き入ってくれた。しばらく間を置いて、静かにこう口にした。「医師として尾身さんの言うことは100%理解できる」
しかし、明確な約束は得られなかった。何かとてつもなく大きなものを背負わされているように見えた。
感染症対策は時にその国の政治という壁にぶつかる。そのたびに張氏の苦渋に満ちた表情を思い出す・・・

尾身茂さん、専門家への非難

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第6回(3月6日)「前のめり」から。今回も、貴重な記録です。

・・・私たち専門家の役割はあくまで感染状況の分析と採るべき対策についての提言で、対策の最終決定は政府の役割である。
しかし、私自身、首相の記者会見への同席を要請されるなど、情報発信において前面に出ざるを得ない状況が続いた。「専門家がなんでも決めている」という印象を与えてしまったようだ。
緊急事態宣言は海外におけるロックダウン(都市封鎖)とは違い罰則など法的拘束力はなかった。人々の間で未知のウイルスへの不安感が共有され、人と人との接触が大幅に減り、感染拡大による医療逼迫も短期間で収まった。
半面、経済活動や社会生活への負の影響もみられた。私の元には殺害を予告する脅迫状が届くようになった。
「ルビコン川」を渡った時点で何らかの批判を受けることを覚悟はしていたが、まさか命を脅かされるとまでは思いもしなかった・・・

・・・新型コロナの流行はしばらく続く。しかも長期戦になるだろう。5月25日の緊急事態宣言の解除を機に私たちは「前のめり」という指摘を踏まえ、第1波の対策の何がうまくいき、どこが問題だったかを検証する必要性を感じた。
「卒業論文」と称した検証の原案の冒頭には「我が国では危機管理体制が十分でない」との一文を盛り込んだ。するとこの文言が政府批判と受け止められたようだ。専門家会議として発信したかったが、厚生労働省や内閣官房から了解は得られなかった。

6月24日午後、専門家会議構成員一同という形で公表した。厚労省の記者会見室を使うことはできず、日本記者クラブでの会見となった。文言も「我が国では危機管理を重要視する文化が醸成されてこなかった」に変えた。
会見も終盤にさしかかったころ、記者から突如、こんな質問が飛んできた。「たった今、西村(康稔)担当相が記者会見で専門家会議を廃止すると発言しました。ご存じですか」
私はとっさに「知らなかった」と答えた。同じ日の同じ時間帯に会見を開き発表するとは正直、驚いた。
2つの会見がたまたま重なったか、否か。私にはわからない。3月以降、大臣とは毎日のように顔を合わせてきた。人柄からして意図的にそうしたとは思えなかった・・・

尾身茂さん、科学的厳密性と政治

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第5回(3月5日)「緊急事態宣言」から。

・・・「第1波」が収束する見通しは一向にたたない。2020年3月末から、クラスター対策を率いてきた押谷仁さん、西浦博さん、脇田隆字さん、そして私は毎日のように新型コロナ対策を担う西村康稔経済財政・再生相と大臣室で約1時間、緊急事態宣言発出に向けて話し合いをしてきた。
本再生産数というウイルスがもつ感染力から西浦さんが試算したところ、現状のままだと1日の感染者数が5000人を超え、さらに増加するという。欧米に近い外出制限をしなければ、もはやオーバーシュート(爆発的な患者の増加)は避けられないとのことだった。
一方で人と人との接触を8割減らせば、約4週間で感染は落ち着き、再びクラスター対策が有効になるとの結果も導いていた。

4月6日午後、私は西村氏とともに首相官邸を訪れ、安倍晋三首相と面会した。世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局長時代に一度、フィリピンのマニラにある日本大使館でお会いしたことがあったが、首相としては初めてであった。
「明日、緊急事態宣言を出さざるを得ません」と私は切り出した。続けて「人と人との接触を8割減らさなければ、短期間での収束は難しいと思います」と述べた。
すると首相は「8割は厳しい。何とかなりませんかね」と即座に返してきた。政治家の直感として「8割削減」だと経済活動や国民生活への影響が大きすぎると判断したのだろう。

その夜、首相の意向を西浦さんに伝えた。私自身、数理モデルを基にした西浦さんの提言は画期的であると考えていた。が同時に、人と人との接触をできるだけ避けることが急務であって、8割という数字に厳密にこだわる必要はないと考えていた。
7日午前、7都府県に対し緊急事態宣言を発出するために政府が専門家に諮る「基本的対処方針等諮問委員会」が開かれた。会長の私は「最低7割、極力8割の接触機会削減」を落としどころとして提案、了承してもらった・・・

・・・国内初となった緊急事態宣言は、発出する以上にどう解除するかが困難を極めた・・・
・・・そもそも5月4日に開かれた会議で「ある程度定量的な解除基準の目安」をなるべく早く示すことが合意されていた。目安がなければ決定が恣意的になる。しかし、疫学専門家は厳密なエビデンスがない、無理だと主張。最後はこの分野の責任者、鈴木基さんにクラスター対策が再開可能な感染レベルをなんとか数値化してもらった。
パンデミック(世界的大流行)初期において得られるデータは限られる。厳密な科学的根拠に基づき提案するのがベストだが、完璧さを求めては時間がまってくれない。
「ここは学会ではない。政府に助言するための組織だ。限られたエビデンスの中で意見や判断を述べるのが専門家の役割ではないか」。私は何度となくこの点を強調せざるを得なかった・・・