カテゴリーアーカイブ:連載「公共を創る」

個人の再登場、2

2026年3月19日   岡本全勝

個人の再登場」の続きです。
社会において「組織中心の社会」から「個人中心の社会」への転換しつつあることは、行政においても同様です。
明治以来の行政は、国民の福利向上のために努力してきましたが、まずは国家を強くし、豊かにすることでした。富国強兵です。産業振興も、企業や業界団体を相手にしました。公共サービス充実も国民を相手にしていますが、その手法は国民個人個人を相手にせず、提供者などを通じてです。医療、教育もそうです。企業も自営業も農業者も、団体に加盟することで、行政の支援を受けました。中央省庁は各業界を相手にしていて、国民はその先にいるのです。これは、サービス充実には効果的な手法でした。

個人が属した組織には、宗教団体もあります。心のよりどころとして、宗教団体に入りました。宗教団体も大きな組織になると、信仰とともに組織の維持拡大が課題になります。時には、個人より組織が優先されます。経済取引なら不利ならやめることができますが、信仰は思い込みなので、信者は脱出するのは難しいようです。

他方で、組織中心から個人中心の社会になると、人と人とのつながりが重要なことが認識されました。組織に属さないと、人は孤独です。「居場所」の重要性です。対策としては、やはり組織に属するのか、組織ではないつながりを作るのかです。
近代市民革命は、王権による市民の活動への恣意的な介入を阻止し、他方で自立して平等な市民を理想としました。フランス革命では、宗教も中間団体もそれを阻害するものとして否定されました。しかし、自由が確立すると、個人の孤独と不安が見えてきました。
中間団体は新たな形で復活し、宗教も続いています。それらに属さない人たちに対して、どのように安心を提供するのか。次の課題です。

個人の再登場

2026年3月18日   岡本全勝

連載「公共を創る」を書きながら、「この国のかたち」が大きく変化していることを考えています。変化の一つは「組織中心の社会」から「個人中心の社会」への転換であることです。「組織の時代」から「個人の時代」へとも言えます。

振り返ってみると、20世紀は組織の時代でした。社会をつくっているのは個人や家庭ですが、各個人がそれぞれに活躍するのではなく、企業や役所、学校など組織に属することで生活してきました。戦前は軍隊もありました。そしてその際に、個人より、組織の方が優先されたのです。
さらに遡ると、かつては多くの人が農林水産業か自営業に従事していました。生活の単位は家族です。地域社会で暮らし、困ったときも親族や地域が助けました。終戦後でも、勤め人は4割で、農業や自営業が多かったのです。第一次産業が半数でした。現在では就業者の9割が勤め人です。貧しく苦しい生活でしたが、個人が気ままに生きていた時代から、会社という組織の中で規則に縛られて生きなければならなくなりました。

就職といいますが、実態は就社で、会社の中で職を代えました。会社も、社員とその家族の面倒を見ました。親族や地域での助け合いが希薄になり、国家の社会福祉制度が充実するまで、企業がそれを担ったのです。日本型福祉(1980年代から主張された日本特有の福祉の仕組み)は、企業と家庭を守る妻が支えていました。

しかし、長期停滞で企業が従業員を解雇し、面倒を見続けることが少なくなりました。従業員も、会社に忠誠を尽くすのではなく、条件の良い会社に転職することが増えました。
ここに、組織中心の社会から、個人中心の社会へと変化が進んだのです。もっとも、組織に属している安心感は薄くなり、自己責任が増えます。また、共働きが増えると妻が家族の面倒を見ることができなくなり、一人暮らしが増えると家族による支えはなくなります。

連載「公共を創る」第252回

2026年3月13日   岡本全勝

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第252回「政府の役割の再定義ー求められる将来の日本を考えた政策議論」が発行されました。社会の未来を考え、つくり上げていく主体と方法について議論しています。前回までで、報道機関、非営利団体、研究者、企業、労働者団体への期待を述べてきました。

社会の未来に関して議論するに当たっては、一番の責任者は政治家です。この30年間の社会の停滞は、政治の議論の中での問題の設定を間違っていたことが最大の理由だと考えています。この国の将来像を示すことは、政治家の役割です。目の前にある無駄の撲滅にばかり取り組み、小さな政府を提唱しているだけでは、夢のある未来は想像できません。
政治主導が十分でないのは、「官僚主導」の負の遺産(代償)とも見ることができます。日本の政治は長く「官僚主導」(実際は与党との協働)が続いたこと、政治家が官僚に依存していたことから、その転換は順調ではありません。官僚主導という「この国のかたち」は、簡単には壊れないのです。省庁再編から25年が経つ今でも、官僚主導の時代を引きずっています。

議論の仕方についても、触れておきました。
異なる意見の人たちが考えをぶつけ合うだけでなく、将来の社会に向かって、互いが納得する結論を得ることが必要です。国会や地方の議会は、本来政治の議論の場ですが、決して成功してはいません。国会では、本会議にしろ委員会にしろ、多くの場合は、議員が政府の考え方を問い、その際に自説を述べることが多いのですが、それ以上に議論が深まりません。
そもそも議会や委員会などの場は、公開され現在進行で批判や評価がなされる場です。公開の場では、発言者、特に各種勢力を代表している者は、観客や視聴者、応援してくれている人たちを意識した発言をせざるを得ません。すると、妥協しにくいのです。別途、非公開の場で妥協点を探り、結論を出す必要もあるのでしょう。

連載「公共を創る」第251回

2026年3月5日   岡本全勝

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第251回「政府の役割の再定義ー求められる働き方と暮らし方の改革」が発行されました。

省庁改革から四半世紀、そしてバブル経済崩壊から35年もたつのに、経済や社会の行き詰まりは解決されていません。その理由の一つは、課題が緩慢な変化によって引き起こされたことにあります。中長期的に緩やかに変化する場合は、急激な変化に比べ気が付きにくく、対策も遅れがちです。
「ゆでガエル現象」という言葉を、聞かれたことがあるでしょう。カエルを水に入れてゆっくりと温度を上げると、カエルは気が付かずに、そのままゆでられて死ぬという話です。実際には、カエルはどこかで跳び出すでしょう。この30年間の日本経済の停滞は、これによく当てはまります。ただし水温が上がったのではなく、温かいと思って浸かっていた風呂が徐々に冷めて冷水になったと言った方がよいでしょう。「冷めた風呂現象」とでも呼びましょうか。

議論のずれが生じた原因のもう一つは、国民意識や社会の仕組みが、目に見えにくいことです。例えば、日本で働く外国人が増えたことは比較的目に付きやすく、新聞でも写真付きで報道されます。それに対し、かつて職場に進出した女性たちの周囲との関係や、現在も子育て中の従業員が保育園への送り迎えなどで苦労していることは、写真では表面的なことしか表現できません。また、他者には分かりにくいのです。

それでは、私たちの社会の未来に関する議論、それに向けた制度や政策の取捨、改造といった問題は、誰が、どのような場で、どのように行っていけばいいのでしょうか。

連載「公共を創る」いよいよ「まとめ」へ

2026年3月1日   岡本全勝

連載「公共を創る」、第253回(3月26日号)の執筆を終え、ゲラになりました。
これで、本論を終えます。なんと253回です。約7年かかりました。よく続いたものです。自分を褒めてやりたいです(苦笑)。その間、丁寧に手を加えてくれた右筆にも、感謝しなければなりません。付き合ってくださった読者のみなさんにも。

連載が長引いたのは、書いていくうちに、次々と話題が頭に浮かんだこと。現実の社会と政治の動きを追いかけたこと。私の体験談を盛り込んだことが理由です。でも、学者の論文ではないので、抽象的より具体的な方がわかりやすいし、読者の反応もよかったです。

次回から、「まとめ」に入ります。どのように構成するか、悩んでいます。253回分を整理しなければならないのです。