「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

低温社会と低温政治

低温経済と低温社会」の続きになります。
本棚の本を片付けていると、1990年代と2000年代の政治や経済に関する本がたくさん出てきます。同時代を分析する評論です。佐々木毅、北岡伸一、佐伯啓思、西部邁、御厨貴、田中直毅、田勢康弘といった大学教授や評論家、新聞記者がたくさん書いています。現状を批判しつつ、その構図・構造を分析して、改革論を述べています。学術書と評論との中間的な本です。
バブル経済が崩壊し、経済も政治も行き詰まっていることが明らかになり、それを克服することが課題だったのです。

それで思ったのですが、最近はそのような本が少ないですね。出版されていても、私が買っていないのでしょう。本屋を覗くと、政治や経済評論の本やトランプ大統領に関するものなどが並んでいますが。
政治や経済が動かないと、分析や評論の対象になりにくいのでしょう。
前回、「適確な処方箋がないことも、対応を遅らせているのでしょう。研究者や報道機関の奮起を期待します」と書いたのですが、分析はされていても、現場がそのように動かない問題だからかもしれません。必要なのは制度改革ではなく、運用だからでしょう。

その後、中央省庁改革、地方分権改革、いくつもの規制改革などが実施されましたが、政治行政改革はそこで止まったようです。経済界では、その後も攻めの経営が活発になるのではなく、コストカット(人件費削減、経費削減)が続き、経済は長期の停滞を続けました。
政治では、民主党への政権交代と自民党の復帰がありましたが、政治課題に本格的に取り組んでいるとは思えず、与野党を含めて政治構造が変わったとは見えません。経済界も縮小が続き、拡大発展の話題はあまり聞きません。

1990年代は、まだ改革に向けての「熱意」「活力」があったのでしょう。2020年代には、その熱意が感じられないのです。
あきらめのように見えます。評論はされるのですが、構造的改革・本格的改革には取り組まないのです。衝撃的な危機ならば対応を急ぐのでしょうが、緩慢な衰退は危機感をもたらさないのでしょう。「ぬるま湯」と例えられますが、ぬるま湯は温度が下がっていきます(通常、ぬるま湯の例えは、温度が上がって茹で上がる場合に使うようですが、今の日本は冷めていく状況です)。

豊かさと自由の先にある退屈さ

1980年代に日本は豊かさを達成し、安全で自由な社会を手に入れました。では、国民は満足したか。どうも、そうではなさそうです。

人類は長年、豊かで自由で安全な暮らしを求めて努力してきました。自由主義先進国は、ほぼそれらを達成したと思われます。日本は、自由と安全において、世界でも上位でしょう。その点で、過去の人たちや権威主義的な途上国に比べて、幸せになったと言えます。もちろん現在の日本は、格差や子どもの貧困など、まだまだ解決しなければならない問題があります。
ところが、豊かさと自由と安全を手に入れても、人は満足できないようです。それらを苦労して手に入れた高齢者は、過去と比べ満足することができます。他方で、若者はその状態が当然のことであり、特に幸せとは感じないのでしょう。

何不自由ない生活が実現したら、それは退屈な生活でしょう。
天国や極楽浄土は、何の悩みもない快適な世界だそうです。それについては、「苦しみがなければ、喜びもないのではないか」という指摘もあります。黒がなければ、白はないのです。
すると、完全に幸せな暮らしは、成り立たないのでしょう。苦しみがないと、幸せは理解できないのです。過去との比較や、未来への希望がないと、人は満足できないのでしょう。未来に向かって努力する、そして良くなっていると実感できることが満足を生むようです。

古代ローマ帝国が繁栄の後、衰退しました。原因はいろいろ挙げられていますが、強い軍隊と健全な政治を支えた市民層が、パンとサーカスに堕し、内部から衰退したことが大きな理由と考えられます。努力、成功、満足の次には、慢心と退屈が待っているようです。

低温経済と低温社会

私は、2001年に実施された中央省庁改革に参事官として従事し、その後、地方分権改革や三位一体の改革にも関与しました。小泉内閣での経済財政諮問会を舞台にした改革も、目撃しました。最近の政界や官界、言論界を見て思うことは、当時ほどの「改革に対する熱」がないことです。

「低温経済」という言葉がありましたが、「低温政治」「低温議論」という言葉も必要なのでしょうか。
低温経済でも革命も起きず、それを理由にした政権交代も起きず、社会に大きな混乱も生じませんでした。非正規雇用が増え、こどもの貧困、格差社会という大きな問題が静かに進んではいるのですが。大恐慌のような経済破綻ではなく、経済は成長しない代わりに、大きな低下もしなかったのです。
「ぬるま湯」という表現がありますが、よく当てはまります。適温ではないのですが、飛び出すほどの冷たさではありません。ところが、世界では各国がどんどん成長し、日本は置いて行かれたのです。国内でぬるま湯に浸かっているかぎりは、気がつかないのですが。家電産業や自動車産業が国際競争に敗れ、工場が閉鎖されることで、その実態がわかります。

政治や言論界での改革議論の停滞も、同じでしょう。国際的には「ガラパゴス政治」を続け、増税せずに大きな支出を続けることで、とんでもない借金王国になっています。国債が暴落するまで、ぬるま湯に浸かっているのでしょうか。
社会に元気がなくなるということは、このようなことでしょう。しかし、若い国民は、30年前の時代、日本社会に活力があった時代を知らないのです。このような状態が普通なのだと思ってしまうのでしょう。
海外に出たり留学したりすると、日本の特殊性が見えるのですが。留学者数も減っているとのことです。

努力が報われない日本社会?」も、これと関係しているのでしょう。
急激な変化には、政治家も世論も盛り上がりますが、緩慢な変化には対応は鈍いようです。また、適確な処方箋がないことも、対応を遅らせているのでしょう。研究者や報道機関の奮起を期待します。

新型コロナが生んだ不信

8月20日の朝日新聞「変容と回帰 コロナ禍と文化 5」「互いに、政治に、社会に「不信」」から。

・・・国内で市中感染が広がりはじめた2020年3月。新型コロナウイルス対策の特別措置法が成立し、緊急事態宣言の可能性が高まっていた。
個人の自由を尊重する民主主義のもとで、移動や集会の制限はどこまで許されるのか。当時、政治社会学者の堀内進之介さん(現・立教大特任准教授)に聞いた。「緊急時には人権を総体として擁護するために、一部の私権を制限する必要がある」。そんな見解の一方で、堀内さんは古代の共和政ローマの例を挙げながら、つけ加えた。「あいまいな理由で緊急時の権力を振るっていいわけではない」

あれから5年。コロナ下の状況について、再び聞いた。
「政治の責任をうやむやにしてはならないという懸念が現実になった。よくも悪くもロックダウン(都市封鎖)などの強い権力を行使せず、『自粛』という形で実質的な強制力が働きました」
法的強制力のかわりに、同調圧力にものを言わせた「自粛警察」が人々を追いこんだ。「『空気』による強制は、市民社会への『丸投げ』でした。極限状態に置かれた医療従事者も、営業自粛を余儀なくされた飲食店の関係者も、互いの善意に期待するしかなかった」・・・

・・・加えて、コロナ禍からの回復期には「V字回復」ではなく「K字回復」、二極化が起こったという。
「医療や介護など対面で働くエッセンシャルワーカー。地方から上京したばかりの学生。不自由の直撃を受けた人も、受けなかった人もいた。大きな不均衡が生じました」
自分の意見や行動が政治や政策に少しでも影響を与えていると感じる「政治的有効性感覚」が下がり、既存の政党への期待度も下がった。
「政治だけでなく専門家への不信が高まり、科学技術やメディアを含めた既存のシステム全体に不信が及ぶ『三重の不信』が生じました」・・・

人生100年時代構想会議

日経新聞夕刊連載、エッセイスト・酒井順子さんの「老い本の戦後史」は、時代時代に売れた「老いの本」を取り上げ、その変化を分析するものです。
「孤独に死ぬのが怖い。老いて子に迷惑をかけるのが恐ろしい。そんな老いの不安と向き合うエッセイやハウツー本が書店で売れている。戦後のベストセラーを時代ごとに読み解いていくと、高齢者と家族が抱える悩みの移ろいが見て取れる。エッセイストの酒井順子さんが解説する」
時代の変化や国民の意識の変化が、よくわかります。

8月20日は、2000年代のベストセラーで「「何がめでたい」 老後の生活不安が生んだ」でした。
そこに、2017年に、安倍晋三首相が「人生100年時代構想会議」を発足させたことが指摘され、内閣府に「人生100年時代構想推進室」の看板を掛ける写真が載っています。
そういえば、そのような政策取組もありましたね。皆さんは覚えていますか。そしてどのような具体政策が実行され、どのような成果があったかを。
ウィキペディア