「体験談」カテゴリーアーカイブ

生き様-体験談

70歳の半分は35年

勲章をもらって、70歳になったことを実感しています。60歳が還暦で、かつては人生の大きな区切りだったのですが。私は60歳の頃は復興庁勤務で、仕事の最中でした。

明るい公務員講座 仕事の達人編』(195ページ「人生を企画する」)で、「概ね20歳ごとに人生を区切るとわかりやすい」と説明しました。
最初の20年は学生で、人生の準備期。次の20年は、仕事を覚え役に立つ時期。40歳が人生の折り返しです。次の20年は、仕事で組織や社会に貢献する時期、60歳で引退して、次の20年は「余生」とです。
退職年齢が引き上げられて、この数字も少し伸ばす必要があります。

先日、取材を受けた記者は36歳とのことでした。「なんや、私の半分か」
それで考えてみたら、70歳の半分は35歳。私が生まれたのは昭和30年(1955年)で、それから35年後は平成2年(1990年)でした。今年は平成で言えば37年です。私の人生前半はほぼ昭和後期で、後半は平成だったのですね。バブル経済崩壊が平成3年(1991年)で、見事に日本社会の変化に対応しています。
36歳の記者は、日本の元気だった時代を知らないのですね。

叙勲4

叙勲2」「叙勲3」の続きです。
北日本新聞も、大きく扱ってくれました。
・・・39歳だった94年から4年間、県総務部長を務めた。当時の故中沖豊知事がさまざまな意見に耳を傾けながら熟慮する姿勢に多くを学んだとし「即決派の自分によく仕事を任せてくれたなと思う。度量の大きい人だった」と懐かしむ。
県庁内の運営に加え、県議会との調整や折衝に心を砕いた日々を「鍛えて導いてくれた全ての関係者に感謝したい」と振り返った・・・

記事を読んだ知人の家族の方は、写真と扱いが大きく、「岡本さんって、富山県人だったの?」と疑問に思われたとのことです。

この間に、たくさんの方から、お祝いやお言葉をいただきました。ありがとうございます。驚いたのは、ウィキペディアです。私の項に、すでに書き込まれていました。加筆してくださる方が、おられるのですね。ありがとうございます。

叙勲3

叙勲」の続きです。今日5月9日は皇居に行って、首相から勲章と勲記をいただき、夫婦同伴で天皇陛下に拝謁しました。最後に、東庭で記念撮影です。旭日と瑞宝の重光章は約40人、ほかに外国人受章者も一緒でした。大綬章の方は午前中で、私たちは午後でした。

豊明殿で拝謁の際に、受章者全員が一列(その後ろに配偶者)で並びます。私は担当官の誘導で列の端に立ちました。隣は、板東久美子・元消費者庁長官です。なぜだろうと思っていたら・・
拝謁の後、陛下が全員の前をお歩きになります。最後の5人ほどは、立ち止まり、個別にお言葉をかけていただきました。
私には、かつて大震災復興のご説明をしたことと、「岡本さんは、長年復興に携わられて」とおっしゃっていただきました。私からは「被災地をお気にかけていただき、ありがとうございます。地震津波被災地はほぼ復興しましたが、福島原発被災地はまだまだです」と申し上げました。
「まだかかりますね」とお声があり、私は再度「日本国民の力をもってすれば、必ずや復興します。これからもお気にかけてください」と申し上げました。併せて「ここまでこられたのも、妻のおかげです」と、後ろに立っている妻を紹介すると、にこやかに応えてくださいました。

叙勲2

叙勲」の続きです。そこに書きましたが、福島中央テレビがニュースで私の叙勲を伝えてくれたほか、福島民報と福島民友の2紙も顔写真入りで大きく扱ってくれました(4月29日)。お褒めの言葉も、ありがたいことです。

「東日本大震災直後から9年半にわたり国の復興行政の中枢に身を置き、陰日なたで本件復興を支えた・・・
震災の年の夏、国と地方の意見交換の際のやりとりが復興の原点となった。『支援ではなく、責任を果たす』。福島側からの指摘で国は原発事故の加害者で、罪を償う立場と認識させられた。水面下では、内堀雅雄副知事(当時)と交渉を重ね、後に法定協議会となる国と県との協議の場の設営にこぎ着けた。
『国は責任を放棄できない仕組みになっている。地元の声を聞きながら一歩ずつ復興を前に進めてほしい』。退任した今も福島への思いは色あせない。」(福島民報)

「官僚人生最後の10年間、本件復興に全身全霊を傾けた。2011年夏、自身に向けられたある一言が復興への決意を強固にした。各界代表らを前に『国は最後まで福島復興を支援していく』と宣言した直後、元東邦銀行頭取の故瀬谷俊雄さんから『今の言葉を取り消しなさい。支援じゃない。責任だ」とげきが飛んだ。『加害者である立場を改めて認識した』と振り返る・・・」(福島民友)

叙勲

今朝29日の新聞で報道されましたが、このたびの叙勲で、瑞宝重光章をいただくことになりました。ありがたいことです。
たくさんの方々から、お祝いの言葉をいただきました。ありがとうございます。

私一人で、ここまで来られたわけではありません。仕事で世話になった人たちや、家族の支えがあってこそです。改めて感謝します。
ただし、私が最後に携わった東日本大震災からの復興は、津波被害についてはほぼ完了しましたが、福島の原発被害からの復興はまだ道半ばです。道筋をつけたつもりですが、まだまだ先が長い戦いです。後輩たちが仕事を引き継いで、国としての責任を果たしてくれると信じています。「叙勲名簿
福島中央テレビニュース