次は、内なる敵です。その第一は、「仕組み」です。事態だとか仕組みだとか、戦う相手としては不思議なものが出てきますが、私の主張は次のようなことです。
日本は、太平洋戦争(第2次世界大戦)に負けました。もちろん戦った相手は、アメリカなどの連合国です。しかし、責任者という視点から見ると、もう一つの戦いがありました。日本は、「国家としての意思決定過程」と戦っていたのです。そして、それに負けました。日本は、外ではアメリカに対して負け、内では「日本国」に負けたのです。
戦争に至る過程、戦略の失敗、終戦への決断について、その失敗を分析した書物は、たくさんあります。例えば最近の読み物としては、猪瀬直樹他著『事例研究 日本と日本軍の失敗のメカニズム―間違いはなぜ繰り返されるのか』(2013年、中央公論新社)があります(わかりやすい読み物です)。
そこには、何を戦争の目的とするのかの不明確さ。どこの国とどう戦ってどのような終結を向かえるのかについての戦略と方針の欠如。ひと暴れはできるが、その後の見込みのない戦略。長期戦になったら負けるとわかっているのに戦争を始める指導部などが、書かれています。これらは、既に常識になっています。
ではなぜ、そのような合理的な判断ができない政府になったのか。合理的判断がなくても、戦争に突入したのか。
一つの視角は、日露戦争との対比です(これも既に書かれています)。日露戦争も、難しい戦いでした。海軍は日本海海戦に勝利しましたが、陸軍の勝利はきわどいものでした。しかし、これ以上の戦争継続はよくない(できない)と、停戦に持ち込みます。そして、賠償金を得られないことで、国民の大きな不満にも直面します。
日露戦争も太平洋戦争も、ともに明治憲法体制だったのです。天皇が統治者であること、その下で政府や軍部が責任を分かち合っていることも、同じです。
責任者が一人なら、責任の所在と決定過程は明確です。例えば、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル。日本では、明治憲法体制では、責任は分散していました。それでも、日露戦争では合理的な判断ができ、太平洋戦争ではできませんでした。なぜか。
日露戦争時には、憲法を補った運用がありました。
明治には、政府と軍部の責任者が、日本国に対して責任感を有していたこと。これに対して、昭和にあっては、責任者たちはそれぞれの集団の代表だったこと。昭和の陸海軍は、それぞれに集団のメンツを競い、それぞれの中では、軍令と軍政が別の動きをします。そして、出先の軍は、中央の指令を無視します。
明治の指導者たちは、幕末と維新を乗り越えてきた戦友であり、政策決定共同体を形成していました。昭和の指導者たちは、それを持っていない、各組織のエリートでした(この弊害は、現代の官民の組織にも見られます)。
ここにあるのは、合理的な意思決定ができない政治メカニズム・国家体制・組織の論理です。
たぶん、当時の政治指導者たちの多くが、負ける戦争を始めたことについて「わかっているのだけど、止められないのだよ」と弁明し、大きな犠牲が出てもなお戦争を止められなかったことについて「私も早く止めたかったけど、できなかったんだよ」と言うでしょう。
では、「誰がその責任者ですか」と聞いても、明確な答は返ってこないでしょう。それが、私の言う「日本は、仕組みに負けた」ということです。
そこから導かれる教訓は、責任者を明確にすることです。そして組織である以上、複数の下部組織や関係組織が関与します。その場合に、意思決定過程を明確にしておくことです。
歴史の法廷を待つまでもなく、事態が進んでいる時に、「誰が、この事態に責任を持っているか」をはっきりさせることです。「私はこの部分は担当していますが、そのほかは所管外です」が繰り返されるようでは、だめなのです。それらを部下として、全体を考え責任を持つ人が必要です。そしてその人に判断をさせるまでの、情報を上げる仕組みが必要なのです。
蛇足。「赤信号、皆で渡れば恐くない」は、「一億総懺悔」に帰結します。そこには、責任者と意思決定がありません。それは、国民の命を預かっている政治指導者、社員の生活を負っている経営者が取るべき道ではありません。
この項、続く。