カテゴリー別アーカイブ: 歴史遺産

浪江町で稲刈り

原発被災地の浪江町沿岸部で、初めての稲刈りが行われたことを、NHKニュースが伝えています。英語のニュースもあります。浪江漁港近くの南棚塩地区です。田植えについても、このホームページで紹介しました。

避難している農家から、農業生産法人が土地を借りて稲作をしています。私も、田植えから、成長期、そして9月にと、成長を見てきました。この田んぼは、除染作業はしましたが、昨年まで荒れ地でした。そこに田植えがされ、青々と稲が育ち、黄金色の稲穂が実る姿は、感動的です。荒れ地と稲穂では、景色が大違いです。地域の人たちにも、勇気を与えてくれます。しかも大規模なので、見渡す限りこの景色が続きます。去年と今年が比較できる写真があれば、理解してもらえるのですが。

この法人を、アイリスオーヤマの子会社である舞台ファームが、支援してくれています。舞台ファームのホームページでも、稲刈りが紹介されています。他の地域や町でも、応援してもらっています。高齢化した農家は、稲作を再開しないことも多く、このような法人が入ることが有効です。ありがとうございます。実は、ここに至るまでは、いろいろと苦労もあるのですが、それはまた別の機会に書きましょう。

双葉町産業交流センター開所

10月1日に、福島県双葉町の産業交流センターが開所しました。県の東日本大震災・原子力災害伝承館に隣接しています。
この地区は産業拠点として開発を進めていて、周囲には企業団地もできています。この施設には、企業に貸し出す部屋とともに、町民が立ち寄って休憩する部屋や、食堂が併設されています。

双葉町は、原発避難指示が出た市町村の中で、唯一まだ住民が住めない町です。この食堂も、町で初めてできた食堂です。
町長の判断で、まず産業から再開する方針をとりました。この地区は放射線量は比較的低いのですが、海岸に近く、住宅は建てることができません。
概要は、読売新聞10月1日夕刊「双葉復興 拠点できた…町産業交流センター」がわかりやすいです。

復興特区制度

東日本大震災から10年が近づいてきて、報道機関が特集を始めたり、準備を始めています。私にも、相談やら取材が来ています。先日、河北新報に、復興特区が載りました。

・・・「特区さえあれば何でもできるわけではない」「何をするかを明確にする必要がある」。政府の復興構想会議では、特区そのものの狙いや定義が議論になった。
具体的なテーマに挙がったのは、復興促進のため被災地を区切って各種特例を設ける手法や、医療介護など先進モデルを被災地で実現し、いち早く国内課題に対処する手法だ。
2011年12月に成立した復興特区法は、一定の被害があった北海道から長野県まで11道県227市町村を対象区域に設定。規制緩和や手続きの簡素化、復興交付金などの特例メニューを用意し、県や市町村の申請を認可する形式とした。
元復興庁事務次官の内閣官房参与岡本全勝(65)は「新しいことをするというより、幾つかの行政手法を組み合わせて自治体を支援するのが主な狙いだ」と解説する・・・

大震災で町が流され、復興の過程で、新しい町をつくろうという機運が高まりました。復興特区制度も、そのための手法の一つでした。制度作成の中心になってくれたのは、青木由行参事官(当時。現在、国土交通省不動産・建設経済局長)でした。

「白地に絵を描く」ことで、何でも自由にできると、私も当初は思いました。しかし、進めていくうちに、そんなことはできないと気づきました。
・まず、被災地は、膨大な数の被災者の生活支援で精一杯で、新しい町づくりを考える余裕はありませんでした。
・また、市町村には、新しい町づくりをするだけの経験も能力もなく、職員もいませんでした。
・制度や手法を、ゼロから考えることは理論的に可能ですが、とても時間がかかって、現実的ではありません。しかも、現地での具体的課題を取り上げないと、抽象論では話は進みません。

復興交付金も復興特区制度も、既存の制度を参考に、まず使えるものを集めました。そして、それを使いやすいようにしました。
まず、自治体からの申請を、一つの窓口(復興庁)で受けることにしたのです。そして、現地で課題が出てきたら修正する、穴を埋めることにしました。これまでにないことですから、やってみないと誰もわかりません。走りながら考えたのです。
そしてその際は、市町村にはそれを担う職員がいないので、国や他の自治体から職員を送り込みました。さらに、計画の青写真作りや、申請書の下書きも国の職員が行うことも多かったのです。

渡辺利綱・前大熊町長「中間貯蔵一人腹固めた」

9月22日の福島民友新聞「震災10年証言あの時」に、渡辺利綱・前大熊町長の「中間貯蔵一人腹固めた」が載っています。

・・・「全てを話すことはできないのだが」。前大熊町長の渡辺利綱は言葉を選びながら語り始めた。渡辺は中間貯蔵施設(大熊町、双葉町)の建設受け入れに至るほぼ全ての流れを知る数少ない”証人”の一人だ。東京電力福島第1原発事故後の除染で出た県内の汚染土などを保管する施設の建設は、本県全体の復興に欠かすことができない重大な決断だった。受け入れの背景に何があったのか・・・

・・・原発事故で県内各地に拡散した放射性物質を除染し、その過程で出た土壌などをどこかに集約しないと環境再生は進まない。「理屈は分かっているが、それが大熊なのか」。渡辺には割り切れない気持ちの中で、どうしても頭から離れない考えがあった。「放射線量が高い大熊町の土を、どこか引き受けてくれるところがあるのだろうか」。渡辺は一人、受け入れへと腹を固めていった。
町民への説明の前、町の担当課長が「反対意見が多かったら引き受けられませんね」と言った。渡辺は「反対してどこかに決まるのなら、俺もどこまでも反対する。だが、現実はそうではないだろう」と諭した。渡辺は、復興支援策や賠償基準と複雑に絡み合う政府交渉に心血を注いでいく・・・

・・・「(震災当初の双葉町長だった)井戸川克隆町長は受け入れに反対だったように、双葉郡が一枚岩で施設の受け入れを協議するという雰囲気ではなかった。誰だって首長は自分の町や町民がかわいいわけだから。それを露骨に出したりしたら、とても施設の問題は解決しない。解決しなかったら福島の復興は進まない。そのような状況で、建前と本音を使い分けて話していた」
「自分の場合、大熊町長という立場で『大熊町の汚染された土壌をどこが引き受けてくれるんだ』と考えていた。町政懇談会をやる日程を組んだ時、担当課長から『町長、町政懇談会をやって反対が多かったら引き受けられませんね』と言われたが、『その気持ちは分かる。でも大熊町の土をどこが引き受けてくれるんだ。反対してどこかが受けてくれるなら、俺も最後まで反対してもいいんだ』と言った」
「正直に言えば、反対している方がトップとしては楽だったと思う。『町民が反対だから』と町民を前面に出して。でも、現実問題としてどこまでそれを通せるのか。通していったら、結局は町民が困ることになると思っていた・・・

渡辺町長には、難しい・苦しい判断を、何度もしていただきました。全町民の避難、遠く離れた会津若松市での暮らしなど。そして、中間貯蔵施設の受け入れ。町長の勇気ある決断で、難しい物事が進みました。
みんなが嫌がる中間貯蔵施設を、誰かが引き受けなければならない。町長の証言には、他の自治体の「無責任な発言」への反発も書かれています。
時間が経つと、この難しい決断とともに、嫌がる施設を大熊町と双葉町が引き受けてくれていること自体が、忘れられます。
それは、第一原発で増え続けている処理水も同じです。「タンクにため続けよ」とか、「先送りしよう」という発言は、この2町がタンクを受け入れていることを忘れています。もし「タンクにため続けよ」と発言するなら、「そのタンクを、私のところで引き受けますから」という発言を合わせてして欲しいです。

町長の証言の最後には、次のような言葉があります。政府関係者は、忘れてはならないことです。
「ただ、大川原地区の整備が進められているものの、町全体から見ればまだまだだ。今でも国の一部には『住民が帰らないところにお金をかける必要があるのか』という考え方があるように感じる。しかし、震災直後から言ってきた通り、帰る帰らないは町民が判断することであって、帰る環境をつくるのは国と東京電力の責任だ。そこは必ず守ってもらうつもりだ」