「歴史遺産」カテゴリーアーカイブ

インドネシア政府幹部への講義

昨日5月20日は、インドネシア法務省幹部に、日本の地方自治体の職員研修について、講義をしました。法務省がインドネシア国幹部を招いて行っている研修の一コマです。参加者は16人、うち女性は9人です。

市町村職員中央研修所を視察いただき、私が、市町村職員中央研修所を含め、自治体職員研修の全体像を説明しました。通訳を介して1時間ですが、半分を質疑に充てました。たくさん質問が出て、時間を超過しました。満足してもらえたと思います。ちょうど、法令執務の研修をしていたので、その授業風景も見てもらいました。

 

肝冷斎に春が来ました

このホームページでしばしば取り上げている肝冷斎。愛好家もおられると思います。最近の日誌では、私のホームページを取り上げてくれることも多いです。

読書と本の購入は相変わらずのようで、先日は、壁に積みあがっていた書物が大崩れしてひどい目に遭ったそうです。私も、他人のことを笑えませんが。
3月になり、双六付きのカレンダーも新しくなりました。そして、いよいよ野球観戦です。

戒石銘

8月8日発行の「公共を創る」第195回「官僚への信頼を取り戻すには」で、「戒石名」に触れました。
「爾俸爾禄、民膏民脂。下民易虐、上天難欺」。私が自治省に入ったときに、上司や先輩から教えられました。
旧二本松藩戒石銘碑が、有名です。しかし、その元となったのは、もっと昔の中国です。肝冷斎雑記、7月19日の「戒石銘(土風録)」に、その出典について、詳しく書かれています。

簡単にいうと、中国五代十国の時代(941年)に、後蜀の王・孟昶(もう・ちょう)が「儀石銘」という文書を作って、地方部局に配りました。孟昶の書いた銘の言葉は全体で二十四句(×4文字=96字)あります。
宋の太宗皇帝(在位976~997)は、そのうち四行(16字)を選んで書き物にして、天下の州県の役所に配りました。このとき名前を改めて「戒石銘」としたのです。

すごいぞ肝冷斎

このホームページでしばしば紹介している「肝冷斎」、8月8日、9日と加筆がなく、暑さで倒れているのかと心配していました。
どうやら、パソコンの調子が悪かったようです。10日夜には復旧したようで、8日と9日の古典漢文や、8日の野球観戦も載っています。

驚きは、10日11日と毎日、昼夜2試合の野球観戦に行っていることです。しかも、昼は炎天下の試合です。東京ドームのような涼しいところでも、疲れるでしょうに。
たぶん12日も、2試合に行っているのでしょうね。明日の朝、確認します。(8月12日夕刻記す)

やはり行っていました。千葉県鎌ケ谷市川崎市多摩区です。東京からだと、片方だけでも遠足です。しかも、東と西ですよ。(8月13日朝追記)