16日の朝日新聞は、「低炭素社会へ。コンパクトな街、注目」を解説していました。車社会の代表として、市街地がドーナツ化した宇都宮市と、コンパクトシティーに踏み出した富山市を紹介しています。地球温暖化という視点以上に、住みやすい街・財政が伸びない時代の街を考えたときに、コンパクトな街と車に頼らない街は重要です。
雪国では、冬の道路の除排雪に膨大な経費がかかります。山の中の一軒家から街の中に降りてきてもらうと、住民も市役所も大助かりです。もちろん、強制することはできず、誘導になるのでしょう。かつて炭焼きと稲作では暮らしていた山村での暮らしは、成り立たたなくなりました(昭和30年代の生活水準なら暮らしていけますが)。
中心市街地を発散させた責任は、行政にもあります。一つは、市役所庁舎や警察署などを、町中から郊外に移転しました。新しい文化ホール、高校、老人ホームも、町はずれにつくってしまいました。用地買収や土地代を考えて、50年というまちづくりを考えませんでした。もう一つは、ゾーニング(用途地域の指定)を、十分に考えなかったことです。どこをにぎわいの場所にし、どこは田園で残すかです。そこで、土地代の安いところやバイパスの沿道に、無秩序にいろんなものが立ち並びました。田んぼの真ん中に住宅も建ちました。右肩上がりの時代が終わり、ようやくこのような議論が真剣にされるようになりました。
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行政
経済の論理と地方の発展
12日の日経新聞経済教室は、前川耀(正しくは火偏)男教授の「これからの国土発展、大都市への集積テコに」でした。前川さんは東京都庁出身の方で、都市から見た国土の発展を述べておられます。
・・東京などへの人口と諸機能の集積は、国や大都市自治体が誘導したのではない。集積が進んだのは市場経済の自律的な運動であり、近年はそれがさらに高次の段階へと移行したにすぎない。世界共通の動きとして知識、情報が経済・科学・文化などの社会活動で大きな比重を占める時代に入り、大都市の集積が富の増大の推進力となった。後戻りできない巨大な文明史的転換がおきている・・
私も、同意見です。ただし、それが一極に集中するかどうかは、別です。すべてが東京に集中することは、必然ではありません。中央集権システムによって、行政と経済と高等教育が東京に集中し、その上に経済の集中の増大があるのでしょう。地域経済振興を考えたとき、この状況を打破するために、道州制がふさわしいと、私も考えています。
金融危機対応
8日の朝日新聞変転経済「金融危機10年」は、1990年代の公的資金投入の経緯です。
銀行の不良債権の存在と、それへの対応の必要性は、早い段階から指摘されていました。しかし、その手始めである住専への6,850億円投入が、大きな議論を招きました。その後遺症もあり、銀行への投入が進みませんでした。記事では、官邸・与党の動きが鈍かったこと、情報が十分開示されなかったこと、所管省が対応をとらなかったことを、指摘しています。
政策変更時や危機対応時の、政治と行政の役割を考える、よい材料です。
続・政策の意図と効果、その検証
昨日、上のように優遇税制の検証について書いたら、8日の朝日新聞は、租税特別措置全般についての、民主党の検証結果を伝えていました。来年度に向けて、各省が延長や新設を求めている137項目についてです。もっとも、この検証は、それぞれの租税特別措置の当否ではありません。それぞれの効果について、必要性の説明を求めたのに対し、各省が説明できたかどうかです。民主党によれば、4割が説明不十分とのことです。
租税特別措置の多くは、ある政策目的のために、税金を優遇する=まける制度です。形を変えた補助金です。
ここでは、政策の検証について、二つのことが問題になっています。一つはもちろん、それが、どのような目的に対しどの程度効果があるかです。もう一つは、それを判断するために、十分な説明がなされるかどうか、情報開示と説明責任です。後者がないと、前者の判断はできません。
もっとも、新設の場合は、効果は推測にならざるを得ません。
政策の意図と効果、その検証
税制改革議論の中で、証券取引優遇税制の議論がなされています。6日の朝日新聞は、「誰が恩恵を受け、効果はどうだったのか」と解説しています。この税制は、株式と公募投信の譲渡益と配当の税率が、20%から10%に引き下げられているものです。2003年に、株価が大きく落ち込んだとき、個人マネーを株式市場に誘導しようと作られました。
それから5年たって、株価は倍以上に回復しました。個人マネーも増えたようですが、欧米に比べれば、その比率はなお低いようです。
一方問題になるのが、この税制で誰が恩恵を受けたかです。株や投信を持つ個人の64%が、50歳以上です。もちろん、所得の高い世帯の方が、株・投信の保有は多いです。金持ちの高齢者が恩恵を受けているのではないか、という指摘です。